【藩名】
磐城平藩
【説明】
歴代藩主の中で最も有名な人物は、第5代藩主「安藤信正」です。桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の「坂下門外の変」で失脚、強制隠居処分に処されて所領も4万石に削減されました。

慶応3年(1868年)の「戊辰戦争」では、安藤信正は佐幕派としての地位を貫き、磐城平藩は「奥羽越列藩同盟」に加入して、新政府軍と敵対しました。しかし、藩庁である磐城平城での攻防戦で敗北し、磐城平城は焼失して藩士は敗走しました。
岐阜藩/織田家13万3千石:織田秀信 織田信長の嫡孫であり関ヶ原の前哨戦で西軍に与したため落城・廃藩
加納藩/永井家3万2千石:永井尚服 戊辰戦争では東山道鎮撫総督府軍「岩倉具定」に帰順した加納藩
作手藩/松平家1万7千石:松平忠明 伊勢亀山藩へ移封のため廃藩
【磐城平藩・場所・アクセス】
〒970-8026 福島県いわき市平旧城跡28番地
【磐城平藩地図】
磐城平藩の成り立ち ― 岩城氏から鳥居忠政へ
磐城平藩(いわきたいらはん)は、陸奥国磐城の中心に置かれた大藩です。この地は平安末期以来、名族・岩城氏が長く支配していたが、関ヶ原の戦いで西軍に与したために領地を没収されました。代わって入ったのが、譜代の重臣・鳥居忠政です。忠政は新たに磐城平城を築いて城下町を整え、「岩城」の字を忌んで「磐城平」と改めたと伝わります。ここに、近世の磐城平藩が始まりました。
歴代の大名家 ― 鳥居・内藤・井上・安藤
鳥居家は十万石を領したが、元和八年(一六二二)に出羽山形へ転じ、代わって内藤政長が七万石で入封しました。内藤家はおよそ百二十年にわたって磐城平を治めたが、延享四年(一七四七)、領内の百姓一揆の責めもあって日向延岡へ転封となります。続く井上家は十年余りで去り、宝暦八年(一七五八)ごろから安藤家が入って、幕末までこの地を治めました。大藩の主が幾度も入れ替わったのは、奥州の要となる磐城平の重みゆえでした。
江戸期のできごと ― 「寛永寅の縄」と用水
内藤家の治世には、藩の礎を築く事業が相次ぎました。二代・内藤忠興は約十年をかけて領内の総検地を行い、二万石もの増収をもたらしました。とりわけ寛永十五年(一六三八)の寅の年に集中して実施されたため、これは「寛永寅の縄」と呼ばれます。忠興はまた小川江・愛谷江といった用水路を整え、新田開発を進めて、藩の農業基盤を大きく固めました。安藤家の代には藩校「施政堂」も設けられています。
安藤信正と幕政 ― 和宮降嫁と坂下門外の変
幕末の磐城平藩を率いたのが、老中・安藤信正です。桜田門外の変で大老・井伊直弼が斃れたのち、信正は幕政の中枢に立ち、朝廷と幕府を結ぶ公武合体を推し進めました。皇女・和宮を将軍家茂の正室に迎える降嫁の実現は、その最大の仕事でした。しかしこの政策は尊皇攘夷派の激しい反発を招き、文久二年(一八六二)、信正は江戸城の坂下門外で水戸浪士らに襲撃され、負傷する(坂下門外の変)。背中に傷を負って逃げたことが武士にあるまじきと非難され、信正は失脚、所領も四万石に削られました。
幕末の磐城平藩 ― 落城、焼失
戊辰戦争が起こると、安藤信正は佐幕の立場を貫き、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦いました。しかし、磐城平城をめぐる攻防の末に藩は敗れ、堅城とうたわれた磐城平城は焼失、藩士たちは敗走しました。老中として時代の舵を取ろうとした信正の藩は、その終幕もまた、幕末の激動をまともに浴びるものでした。

