| 震天丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||

1863年3月イギリスより購入しました。
所属した江戸幕府と幕末の海軍
この輸送船・震天丸を運用したのは、江戸幕府です。幕府はペリー来航ののち、遅れを取り戻そうと本格的な洋式海軍の建設を急ぎ、こうした汽船・輸送船を各国から買い集めました。震天丸もその一隻で、兵員や物資の輸送を担いました。
江戸幕府が持っていた艦船
一隻だけを見ていると、その幕府が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている江戸幕府の艦船は三十七隻で、内訳は輸送船が十八隻、砲艦・軍艦が五隻、帆船が十二隻、その他が二隻です。
数が多いため一部だけ挙げます。豊安丸、長崎丸、高雄丸、龜田丸、函館丸、君澤形丸、旭日丸、大元丸、鳳瑞丸、昌平丸(昇平丸)など。
数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。
幕府海軍の礎を築いたのは、長崎海軍伝習所や神戸海軍操練所で人を育てた勝海舟でした。その門下からは、のちに旧幕府艦隊を率いて箱館・五稜郭で最後まで戦った榎本武揚らが育ちます。戊辰戦争では、幕府の軍艦の多くが新政府へ引き渡される一方、榎本は主力艦を率いて蝦夷地へ渡りました。幕府海軍のあらましは幕末の軍艦のページもあわせてご覧ください。
一行しか伝わっていません
当ページに書かれているのは、文久三年三月にイギリスから買った、という一行だけです。外部の資料を探しても、それ以上のことは出てきませんでした。幕府海軍の船を並べた一覧にも、震天丸の名は載っていません。幕府がこの名の船を持っていたということ自体、当サイト以外では確認できません。
広島藩にも、同じ名前の船があります
当サイトには震天丸のページがもう一つあり、そちらは広島藩の船です。震天丸のページに書いたとおり、坂本龍馬が芸州の蒸気船を借りて銃を千挺運んだ、という話に関わる船です。幕府が文久三年に買った船が、のちに芸州藩へ渡った、という見込みもあります。豊安丸には、幕府が慶応二年に買った船が芸州藩のものになっていた、という前例があるからです。ただし、それを示す資料も、別の船だとする資料も見つかりませんでした。
文久三年という年
買ったとされる文久三年は、幕府が船を集めて買った時期にあたります。同じ年の二月に長崎丸と第一長崎丸、十月に長崎丸二番。前の年の文久二年には順動丸を十五万ドルで買っています。震天丸もその流れの一隻だったのでしょうが、記録が残っていません。名前だけが一覧に残った船は、ほかにもいくつもあります。
同じ名前の船について
幕末の船は売り買いで持ち主が変わることが多く、同じ名前が別の船に付けられることもありました。当サイトには、震天丸と同じ(または近い)名前の船のページがほかにもあります。
- 震天丸(広島藩・輸送船・蒸気内車)—要目が違い、名前が同じ別の船と考えられます
震天丸を船の型と持ち主から読む
震天丸には機関がなく、帆だけで走る船でした。石炭を積まないぶん、船倉を荷や人に使えます。(帆船と蒸気船の違い)船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この震天丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、開陽丸(シップ級フリゲート)、豊安丸(輸送船)、長崎丸(輸送船)、高雄丸(砲艦)、龜田丸(スクーナー船)、函館丸(スクーナー帆船)、君澤形丸(スクーナー帆船)、旭日丸(バーク船)などがあります。
持ち主の江戸幕府の幕末をふり返ると、幕府海軍。戊辰戦争では榎本武揚が艦隊を率いて箱館へ渡り、明治2年に降伏。震天丸も、そうした幕府の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
同じころの幕府—小笠原長行の率兵上京
海を渡った老中
震天丸が幕府の船となった文久三年(1863)の五月、老中格の小笠原長行は、幕府の歩兵や騎兵を蒸気船に乗せて江戸から大坂へ向かいました。京都で攘夷を迫る朝廷と長州の勢力を、武力の圧力で抑えようとしたのです。洋式の船で兵を一気に運ぶという、それまでにない動きでした。
その結末
しかし小笠原の上京は、京都に入る前に将軍家茂の命で止められ、小笠原は職を解かれます。幕府が買い入れた船は、こうして政治の駆け引きの道具としても使われるようになっていきました。震天丸はのちに芸州藩に移り、龍馬が土佐へ銃を運ぶ船となります。



