長岡 謙次郎【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

長岡 謙次郎
出身 土佐藩
職名

長岡謙次郎は、土佐藩出身の海援隊士です。のちに二代目の海援隊長となる長岡謙吉の弟とされますが、研究では「長岡謙吉の親族」とされており、弟と明記した資料は見つかっていません。

慶応四年(1868年)正月、龍馬の死後の海援隊を率いた謙吉とともに讃岐へ渡り、塩飽諸島や小豆島の鎮撫に加わったと伝わります。その後の消息は分かっていません。

高松を接収したのは、土佐藩の正規軍でした

、長岡兄弟が高松の松平家を無血で平定したといわれることがあります。ところが慶応四年正月の高松藩の処分にあたったのは、土佐藩の正規の軍勢でした。正月十日に朝廷が高松藩主の官位を取り上げて討伐を命じ、十一日に土佐藩主の山内豊範へ勅命が下り、十三日に遠征隊が編まれます。総督は深尾成質、大軍監と大隊司令を兼ねたのが乾退助、のちの板垣退助で、迅速隊六百人を率いました。高松城へ入ったのは正月二十日です。

では海援隊がどう関わったかというと、正月十八日に長岡謙吉や八木彦三郎らが船で川之江へ着き、上方の形勢と錦の御旗が来ることを土佐軍へ伝えました。つまり知らせを運んだ側です。城が戦わずに明け渡されたのは事実ですが、それを成したのは板垣らの軍であって、海援隊ではありません。この記事の書き方は改めるべきものとして、ここに記しておきます。

「弟」とする資料が、見あたりません

謙次郎は長岡謙吉の弟と書かれることが多いのですが、慶応四年の海援隊備讃瀬戸グループの顔ぶれを調べた研究では「長岡謙吉の親族」とされており、弟と明記した資料は見つかりませんでした。生まれた年も、亡くなった年も、その後どうなったのかも分かりません。

兄・長岡謙吉

兄の謙吉は天保五年の生まれで、明治五年六月十一日に三十九歳で亡くなりました。土佐の高知城下浦戸町の医師・今井孝順の長男で、本名を今井純正といいます。河田小龍に蘭学を、長崎で二宮敬作に医学を学んだ人です。龍馬はその文才を買い、海援隊の通信文書やいろは丸事件の顛末書の起草など、事務のほとんどを謙吉に任せました。慶応三年十一月十五日に龍馬が討たれると、二代目の隊長に選ばれます。明治になってからは三河県知事、大蔵省、工部省と務めました。

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名が確かに出てくるのは、四月十二日の任命書です

長岡謙次郎が海援隊にいたことは、一つの文書で確かめられます。慶応四年四月十二日、土佐藩が長岡謙吉に出した「讃州島ニ御用取扱勤隊長被仰付」という任命書です。そこに付された隊士十三名の名簿の末尾に、長岡謙次郎の名があります。

十三名はこうです。八木彦三郎、波多彦太郎、勝間圭三郎、岡崎恭介、桂井隼太、橋詰啓太郎、島橋謙吾、武田保輔、得能猪熊、島田源八朗、島村要、堀兼司、そして長岡謙次郎。龍馬が死んだあとの海援隊が、讃岐の島々を預かる役所として動き出したときの顔ぶれです。

逆にいうと、慶応四年一月に兄とともに丸亀へ出向いたかどうかは、謙次郎個人についてはわかっていません。海援隊が一月十八日に川之江、一月十九日に丸亀へ入ったこと、一月二十一日に象頭山で軍用金千両を借りたこと、一月二十七日に丸亀の「白蓮社」で謙吉が私塾を開いたことは記録に残っていますが、謙次郎が同行したとは書かれていません。確かな最初の記録は、この四月十二日の任命書です。

高松城を受け取ったのは、土佐藩の追討軍です

高松の接収について、もう少し具体的に書いておきます。香川県立ミュージアムの講座資料は、鳥羽伏見の戦いに参戦した高松藩が朝敵とされ、土佐藩を中心に丸亀藩・多度津藩が加わった軍によって討伐されたとしています。高松市の説明も「慶応四年一月 官軍に高松城開城」「土佐藩を中心とする官軍に包囲された時も戦わず開城」です。

伝わっている編成では、総督が近習家老の深尾成質、御仕置役が小南五郎右衛門、大目付が森確次、そして大軍監兼大隊司令が乾退助、のちの板垣退助。迅速隊八小隊六百人が一月十三日に高知を発ち、一月十八日に川之江で錦旗を受け取り、一月十九日に丸亀、一月二十日の午後四時ごろに高松城へ入りました。

海援隊は、この追討軍に川之江で合流して、上方の情勢と錦旗の到着を伝える役回りでした。高松藩側は興正寺の仲介で家老二名を切腹させて恭順し、藩主の松平頼聰は浄願寺で謹慎、四月十五日に軍資金十二万両を献じて許されています。

つまり城を受け取ったのは六百人の正規軍で、長岡兄弟が無血で平定したという書き方は実際とずれます。情勢を運んだ役目は小さくありませんが、そこは分けて書くべきところです。

長岡謙次郎の生きた時代—倉敷の代官所

幕府の代官所 塩飽諸島は、幕府の直轄地として、備中の倉敷代官所などとかかわりを持っていました。倉敷は幕府の代官所が置かれた天領の町で、いまも白壁の蔵が並ぶ美観地区として知られています。慶応二年(1866)には、長州の脱走兵らがこの代官所を襲う「倉敷浅尾騒動」も起きました(雲出藩・浅尾藩のページ)。

天領の終わり 慶応四年(1868)、幕府が倒れると、倉敷代官所は新政府に引き継がれ、のちに倉敷県となりました。塩飽に海援隊が入ったのも、こうして天領の支配がいっせいに組み替えられていく時期のことでした。

参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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