弁天台場は箱館港の防衛拠点として1863年(文久三年)に完成した砲台です。
洋式城郭五稜郭を手掛けた「武田斐三郎」の設計により、徳川幕府が約8年の歳月をかけて建造しました。
当初の目的は外国船襲来を防ぐためのものためだったが、皮肉にも実戦に使用されたのは戊辰戦争末期の内戦においてでした。
箱館戦争時、旧幕府軍の重要拠点とされ新選組の生き残りも主力として立てこもったが、新政府軍の攻撃で五稜郭降伏前に降伏しました。台場は1896年(明治29)に解体されました。ただし、その石がなくなったわけではありません。石垣に使われていた間知石や亀腹石は函館漁港の船入澗防波堤に転用され、いまも波を受けています。この防波堤は土木学会の選奨土木遺産に選ばれています。


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ディアナ号の大砲を据えた、周囲六百八十四メートルの砲台
弁天台場は安政三年に工事が始まり、総工費はおよそ十万両に上りました。周囲は約六百八十四メートル、面積はおよそ三万二千三百四十平方メートルで、五稜郭のおよそ六分の一にあたります。高さ約十一メートルの石垣を備えた土塁が周囲を巡り、東南の端にはトンネル式の通路とアーチ型の入口が設けられていました。据えられた大砲は十五門ほどで、幕府に献上されたロシア軍艦ディアナ号の大砲の一部がここへ回されています。完成した年については文久三年とする記述と元治元年とする記述があり、諸説あります。
明治二年五月十五日、二百四十人が降りた日
箱館戦争では、伝習士官隊長の瀧川充太郎が率いる守備隊がここに拠りました。新選組の隊士百余名を含めておよそ二百四十名で、降伏したのは明治二年の旧暦五月十五日、いまの暦では六月二十四日にあたります。孤立した台場を救おうと五稜郭を発った土方歳三が、一本木関門の付近で狙撃されて落命したのは、その数日前のことでした。
函館漁港の防波堤に積み替えられた台場の石
台場は明治二十九年の港湾改良工事で取り壊されましたが、石はそこで捨てられませんでした。解体で出た間知石や亀腹石は、札幌農学校の広井勇が設計した函館漁港の船入澗防波堤へ転用され、明治三十二年に北海道で最初の近代的な港湾施設として完成します。広井は台場の石積みを、今日のものに比べて少しも劣らないと評したと伝わります。この防波堤は平成二十五年に大がかりな修復を受け、いまも現役で波を受け止めています。台場の跡地は函館どつくの敷地となり、向かいの入舟児童公園には説明板と、平成二十二年に建てられた新選組最後の地碑が置かれています。
北海道函館市弁天町20
回天の最後の戦い
浅瀬に乗り上げた回天 明治二年(1869)五月十一日、新政府軍の箱館総攻撃の日、旧幕府軍の軍艦・回天は箱館湾で新政府の艦隊と砲火を交えました。しかし多くの砲弾を受けて動けなくなり、浅瀬に乗り上げます。回天はその後も、動かない「砲台」として撃ち続けましたが、やがて乗組員は船を捨てて上陸し、船は焼かれました。
弁天台場の孤立 同じ日、新選組の隊士たちが守る弁天台場は、陸と海から攻められて孤立しました。土方歳三はこの弁天台場を救おうとして一本木関門のあたりへ出たところで撃たれ、命を落とします。弁天台場が降伏したのは、その四日後のことでした。
場所・アクセス・地図
北海道函館市入舟町



