島本 要(土岐 真金)【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

島本 要(土岐 真金)
出身 土佐藩
職名

島村要(土岐真金)は、天保十一年(1840)に土佐藩足軽・島本信平の長男として生まれます。
慶応二年(1866)に、藩命で京都藩邸詰となり、その後、脱藩し坂本龍馬の海援隊に加わりました。

龍馬が暗殺された後の海援隊は、慶応四年(1868)、海援隊の長岡謙吉らと讃岐塩飽諸島の鎮撫に活躍します。
この海援隊に参加したのは長岡謙吉・宮地彦三郎・島村要を含めた12名で、大半が土佐藩出身者でした。

島民たちからは「活き仏さま」と崇められ、今でも、島村要(土岐真金)の「島」の字と、八木彦三郎(宮地彦三郎)の「八」の字を取りあわせ命名された「八島神社」が祀られています。

島本 要(土岐 真金)【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

八島神社の「島」は、この人の字です

丸亀市の塩飽本島にある八島神社は、海援隊士を祀った社です。その名は、島村要すなわち島本要(土岐真金)の「島」と、八木彦三郎すなわち宮地彦三郎の「八」を取り合わせたものだと、この記事は伝えます。社の名は三度変わっていて、明治三年に「土州様」として小坂の大山神社へ合わせ祀られ、大正七年に祀られた十三人の名が分かって「十三神社」となり、昭和九年に、実際に塩飽を受け持ったのは十三人のうち数名だったと判明して、二人の頭の字から「八島神社」と改まりました。島本要は「活き仏さま」、八木彦三郎は「生佛さま」と呼ばれたと伝わります。

足軽の子でした

天保十一年に土佐藩の足軽・島本信平の長男として生まれ、慶応二年に藩の命で京都藩邸詰となり、そののち脱藩して海援隊に加わりました。海援隊には土佐藩の上士から足軽まで、身分の幅のある人々が集まっており、隊士の出自を調べた研究の表でも、上士・郷士・下士・庄屋・医師・町人・農民・水夫・豪商と分かれています。島本要のような足軽の子が、島で神として祀られることになったわけです。

祀られた十三人が誰かは、分かりません

大正七年に名が分かったという十三人を並べた資料は、探した範囲では見つかりませんでした。『八島神社誌』という郷土の記録に載っている見込みがありますが、確かめられていません。

目次

八島神社になったのは昭和九年です

神社の名の由来について、もう少し詳しく分かりました。社名はこう変わってきています。

明治三年、海援隊士を祀った「土州様」を大山神社に合祀。大正七年に「十三(とさ)神社」あるいは「重三神社」と改称。大正八年に小坂山上の大山神社を現在地へ移し、そして昭和九年に「八島神社」と改めました。つまり八島という社名は、明治ではなく昭和に入ってからのものです。

「八島」の由来については、塩飽を担当した十三人のうち何人かが分かり、八木彦三郎と島村要の頭文字を取ったと伝わります。典拠として福崎孫三郎「八島神社誌」や角田直一『十八人の墓』が引かれています。ただし自治体や神社庁の公式な説明は見つかりませんでした。丸亀市の「塩飽諸島」のページには塩飽勤番所跡と咸臨丸のことが載るだけで、海援隊や八島神社の記述はなく、香川県神社庁と丸亀市の神社一覧にも八島神社の名はなく、本島町小坂は「大山神社」として載っています。祭神の公式な記載も見つかっていません。

名前の表記について

この人の名は「島村要(しまむら かなめ)」と書かれるのが一般的でした。父が土佐藩足軽の島本信平で、別名に島本虎豹・土岐真金があると伝わります。「島本要」という表記は、幕末史の文脈では確認できません。父の姓が島本で、本人は島村要、という関係のようです。

生年も一本ではありません。このページは天保十一年としていますが、天保十五年とする資料も見つかりました。没年を大正十一年とする記述もありますが、どちらも出どころが限られています。

塩飽に入ったときの処分は、軽いものでした

慶応四年一月十七日から二十日にかけて、塩飽で小坂騒動が起きています。一月十九日から二十日の夜に人名勢が小坂浦を焼き、小坂側に十八名の死者が出ました。一月二十日に塩飽諸島が土佐藩の預り地となり、八木彦三郎に事務が命じられます。

海援隊が上陸したのは一月二十二日から二十四日。塩飽勤番所の玄関に三葉柏の幔幕を張って「土佐藩塩飽鎮撫所」に改め、そこで下した処分が、小坂浦の住民は全員放免、人名の指導者は一週間の閉門謹慎という軽いものでした。十八人が死んだ騒動のあとで、これだけの裁きで収めたことになります。島民から「活き仏さま」と呼ばれたと伝わるのは、こうした扱いのことかもしれません。

島本要の生きた時代—塩飽勤番所

塩飽の役所 島本要らが治めた塩飽諸島の本島には、島の自治の中心となった「塩飽勤番所」がありました。寛政十年(1798)に建てられた役所で、島の年寄たちが政務をとり、秀吉や家康から与えられた朱印状などの大切な文書が保管されていました。建物はいまも残り、国の史跡となっています。

島の自治 塩飽の人々は「人名」と呼ばれる船方の身分のもとで、江戸時代を通じて島を自分たちで治めてきました。幕府が倒れて役人がいなくなったとき、海援隊の島本らが島に入ったのは、この自治の仕組みを守りながら混乱を防ぐためでもありました。

参考資料:Wikipedia日本語版「島本要」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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