橋本 久太夫【越後出身 海援隊士 幕末亀山社中】

橋本 久太夫
出身 越後
職名

橋本 久太夫は、越後出身の海援隊隊士です。

元は江戸幕府の軍艦船員であったが、同僚と喧嘩をして出奔し、その際に坂本龍馬に助けられました。
以降、龍馬とともに亀山社中に属し、桜島丸の水夫頭を勤めました。慶応二年(1866年)大洲藩のいろは丸運用方として派遣されています。

慶応三年(1867年)、イギリス人殺傷事件で他の隊士とともに疑われたが、疑いを晴らすことに成功しています。維新後は東京府に住みました。大酒飲みであったが、航海術に優れていました。また大坂と長崎から妻を取ったが、竜馬の妻・お龍に一人にするように諭され、長崎の妻に帰路の金を渡して去らせたといいます。(生没年不詳)

お龍が語った、大酒飲みの船乗り

話の出どころは、龍馬の妻お龍が晩年に語った『千里駒後日譚』とその拾遺です。お龍はこう話しています。橋本久太夫はもと幕府の軍艦に乗っていて大酒飲みだったが船の乗り方は上手だった、大坂沖で船の中の酒場で喧嘩をして海へ飛び込んで逃げてきて雇ってくれというので家来にした、と。喧嘩をして出奔したという記事の記述は、この談話に合います。

妻が二人いた話の、その後

妻の話も同じ談話にあります。長崎の女郎と大坂の芸者の二人を持っていて、長崎のほうを帰し、大坂のお房という女を本妻にしました。そしてこの話には続きがあります。維新のあと、お龍が東京へ出たとき高輪でふと橋本に出会い、家へ来なさいと言われて二、三日世話になった。お房は「あなたのおかげで、酒飲みだけれどまあ橋本さんと添っています、お恩返しはこんな時にしなければする時がない」と言って親切にしてくれた—。諭した側と諭された側が、十数年のちに東京で再び会ったことになります。

乗った船

もと乗っていた幕府の船は翔鶴丸と黒龍丸で、その縁で龍馬と知り合いました。慶応二年にはユニオン号の水夫長をつとめています。この船は薩摩藩の名義でグラバーから買われて長州藩へ渡ったもので、薩摩側が桜島丸、長州側が乙丑丸と呼びました。この記事が「桜島丸の水夫頭」とするのはこの船のことで、資料の語では水夫長です。伊呂波丸(いろは丸)には運用方として、横笛丸には士官として乗り組みました。出身は越後とも讃岐の塩飽諸島とも伝わり、生没年は分かりません。

目次

お龍が名前を挙げて語っています

この人について確かな出どころが一つあります。お龍(楢崎龍)晩年の聞き書き『千里の駒後日譚拾遺』です。橋本久太夫の名が実名で出てきます。

お龍はこう語っています。「橋本久太夫は大坂に居た頃は妻を二人持て居りました。一人は長崎の女郎、一人は大阪の芸者でした」。そして龍馬が仲裁に入り、帰郷を望んだ長崎の女を帰して、その旅費十四、五両を貸し、大阪の芸者のお房を本妻にするよう勧めて、橋本もそれに従ったといいます。後年、東京で再会したとき、お房が龍馬への感謝を口にしたという話も続きます。酒呑みだったという話も、このお房の言葉のなかに出てきます。

つまり「大坂と長崎に妻がいた」「大酒飲みだった」「維新後は東京にいた」という三つは、どれもお龍の口から出た話が元でした。龍馬が部下の夫婦喧嘩を仲裁して、旅費まで立て替えている。海援隊という「会社」の、業務とは関係のない一面です。

いろは丸に乗った時期について

慶応二年に大洲藩のいろは丸の運用方として派遣された、という記述には時期のずれがあります。愛媛県が公開している『愛媛県史』では、いろは丸が海援隊へ貸し出されたのは慶応三年四月で、貸与料五百両・十五日間の約束、四月十九日に長崎を出て四月二十三日の午後十時に明光丸と衝突して沈んでいます。ふだんは大洲藩士が運用方と機関方を担当し、この航海では海援隊員が乗り組んだという書き方です。慶応二年とする資料と、この慶応三年四月の貸与と、両方を並べておきます。

出身地も一本ではありません。越後とする資料と、讃岐の塩飽諸島の出身とも伝わるとする資料があります。元いた幕府の軍艦は、翔鶴丸・黒龍丸とする記述があります。

なおイカルス号事件で疑われた件については、法政大学の宮永孝の論文「イギリス軍艦『イカルス』号水夫暗殺一件」にこの人の名は出てきません。真犯人は筑前藩の金子才吉で、発狂状態で斬ったのちに自殺しています。橋本が疑われたという話の出どころは、『坂本龍馬大事典』や松岡司『定本坂本龍馬伝』を引いた記述に限られました。

橋本久太夫の生きた時代—越後の港と北前船

越後の出身 橋本久太夫は越後の出身です。越後は北前船の行き交う日本海の海運の拠点で、新潟の港は安政の通商条約で開港が決まった五つの港の一つでもありました。ただし実際の開港は遅れ、新潟が外国に開かれたのは明治元年(1868)十一月のことです。

海の男たち 海援隊には、土佐の侍だけでなく、越後や塩飽などの海の町で育った船乗りたちも加わっていました。帆船や蒸気船を実際に動かすには、こうした海の経験を持つ人々が欠かせなかったのです。橋本は、いろは丸の航海にもかかわった一人と伝えられます。

参考資料:Wikipedia日本語版「橋本久太夫」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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