黒木小太郎【鳥取藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

黒木小太郎
出身 鳥取藩
職名

黒木小太郎は、因幡国(いまの鳥取県)の鳥取藩出身の亀山社中の隊士です。剣の達人として知られ、社中の帆船ワイルウェフ号の船将として五島の沖で遭難し、命を落としました。生年は分かっていません。

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千葉重太郎に学んだ、剣の達人でした

黒木は、鳥取藩の剣術師範だった千葉重太郎に学びました。重太郎は、坂本龍馬が江戸で世話になった千葉定吉の子で、龍馬とは剣を通じた古い縁があります。真剣を持っても稽古のときと変わらない太刀さばきを見せたといい、龍馬はその胆力を買って、兄の権平や家族に宛てた手紙にこの男のことを書き送りました。龍馬の手紙に名の出る隊士は、そう多くありません。

勝海舟の塾から亀山社中へ

文久三年(1863年)正月ごろ、のちに亀山社中で同僚となる高松太郎や千屋寅之助と相前後して勝海舟に入門し、龍馬たちと航海術を学びました。ところが勝が職を解かれると、学ぶ場も住むところも一度に失います。行き場をなくした若者たちがそのまま龍馬と行動をともにし、慶応元年(1865年)閏五月の亀山社中の発足につながりました。黒木はその中堅として働きます。

鳥取藩を離れた理由

鳥取藩(池田家三十二万石)の藩主・池田慶徳は、のちの将軍・徳川慶喜の兄にあたります。藩は幕府と朝廷のあいだで難しい立場に置かれ、文久三年には尊王攘夷派の藩士たちが京都の本圀寺で藩の重臣を斬る事件も起きました。黒木は、そうした藩を離れて龍馬のもとで海に出る道を選んだことになります。

鳥取藩主・池田慶徳の肖像
黒木小太郎の故郷・鳥取藩の藩主、池田慶徳(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

龍馬の手紙では「黒木半兵衛」と書かれています

龍馬が黒木のことを書いた手紙は、慶応二年(1866年)十二月四日付で兄の権平らに宛てた長いものです。ところがこの手紙では、「小太郎」ではなく「黒木半兵衛」と書かれています。千葉重太郎の門人で、真剣でも稽古と変わらなかったという中身は一致しますから同じ人を指しているとみられますが、なぜ名が違うのかは分かりませんでした。変名の多い隊ですから、半兵衛と小太郎のどちらかが通り名だったのかもしれません。

ワイルウェフ号の遭難—「五月二日の暁」

ワイルウェフ号は、亀山社中が持っていた洋式の帆船です。黒木はその船将として乗り組みましたが、慶応二年五月二日の未明、五島列島の中通島・潮合崎の沖で嵐に遭い、暗礁に乗り上げて沈みました。社中の発足から一年ほどのうちの出来事です。

嵐の五島沖で暗礁に乗り上げたワイルウェフ号(イラスト)
慶応2年5月2日の未明、五島列島・中通島の沖で嵐に遭ったワイルウェフ号(イメージイラスト)。写真ではありません

龍馬の同じ手紙には、黒木が五月二日の明け方に死んだと書かれています。遭難を「閏五月」とする資料もありますが、慶応二年には閏月がありませんので、龍馬の手紙の五月二日のほうが正しいと考えられます。

新上五島町の案内によると、この遭難で亡くなったのは副将の池内蔵太(細川左馬之助)をはじめ十二名です。そのうち名前が分かっているのは、黒木と池内蔵太の二人だけでした。船将と副将の名は残り、水夫たちの名は残りませんでした。龍馬の手紙が船将の剣の腕まで書き留めているのは、それだけこの人を惜しんだということでしょう。

参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、坂本龍馬書簡(慶応二年十二月四日付 坂本権平ほか宛)、新上五島町の公開資料、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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