| 石田英吉(伊吹周吉) | |||
| 出身 | 土佐 | ||
| 職名 | |||
石田英吉は、土佐藩士で明治の政治家。
変名を伊吹周吉といいます。
石田英吉は土佐藩の医師の家に生まれ、家を継ぐために大坂の適塾で緒方洪庵に学びました。しかし吉村寅太郎に心をひかれ、文久三年(1863年)の天誅組の挙兵に加わります。この戦いに敗れると長州へ落ちのび、長州の諸隊の中で再起を図りました。翌年の禁門の変にも加わって傷を負っています。その後も長州にとどまり、高杉晋作らとともに戦いの日々を送りました。
以後は坂本龍馬とともに亀山社中や海援隊の結成に参加し、長岡謙吉にとともに重きをなしました。下関海戦では坂本の命によりユニオン号の指揮を任せられ、めざましい戦果を挙げました。
龍馬の死後、英吉は二代目の隊長となった長岡謙吉を支え、若い隊士の指導にあたって海援隊をまとめました。明治に入ってからは秋田県令、千葉県知事など各地の知事を歴任し、農政で大きな働きを残しています。海援隊の同志だった陸奥宗光が農商務大臣になると、英吉は次官に迎えられ、国の農商務の政策を支えました。
明治二十九年六月、維新の功により男爵を授けられます。貴族院男爵議員をつとめたのち、明治三十四年(1901年)、63歳で没しました。

石田英吉の生きた時代—天誅組から県知事へ
天誅組の生き残り 石田英吉(伊吹周吉)は、文久三年(1863)八月、大和で兵を挙げた天誅組に加わった土佐の脱藩浪士の一人です。天誅組は幕府の命を受けた諸藩の兵に追われて壊滅しましたが、石田は生き延びて長州へ逃れ、奇兵隊などに身を置きました。
明治の石田 その後、海援隊に加わった石田は、龍馬の死後、長崎の振遠隊の隊長として戊辰戦争を戦います。明治になると政府に仕え、秋田県令や長崎県知事、高知県知事などを務めました。天誅組の敗走から県の長官へ—幕末の浪士の中には、こうして明治の地方の政治を担った人もいたのです。
参考資料:Wikipedia日本語版「石田英吉」「海援隊」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。
海援隊から明治の高官へ
石田英吉は、土佐の出身で、若くして志士の道に入り、坂本龍馬の海援隊に加わって活動しました。幕末の動乱のなかで各地を駆け、戊辰戦争にも身を投じています。
知事・男爵として
維新後、石田英吉は明治新政府に出仕し、いくつかの県の知事や貴族院議員などの要職を歴任して、男爵にも列せられました。幕末に海援隊で培った気概と実務の力を、新しい国づくりの現場で発揮したのです。志士から近代国家の官僚へと転じた、海援隊士のたどった道の一つを示す人物です。
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天誅組、奇兵隊、そして海援隊
この人が幕末に身を置いた場所を並べると、そのまま尊攘運動の敗北の歴史になります。文久三年八月、伊吹周吉の名で天誅組に加わって大和で挙兵し、伍長として戦いました。この挙兵は八月十八日の政変で後ろ盾を失い、潰えます。翌元治元年には禁門の変で久坂玄瑞らとともに戦い、これも敗れました。慶応元年には長州へ潜んで奇兵隊に入り、翌慶応二年に坂本 龍馬に誘われて長崎へ移ります。負けた側を三度渡り歩いて、四つ目にたどり着いたのが海援隊でした。なお海援隊に入った年については慶応元年とする資料もあり、国立国会図書館の憲政資料室は慶応二年としています。
解散したあとの受け皿は、振遠隊でした
海援隊が土佐藩の命令で解散したあと、隊士の何人かは長崎の振遠隊に移りました。石田英吉はその隊長です。菅野 覚兵衛も幹部として加わり、山本 復輔(山本 洪堂)は隊付きの医者として朝陽丸に乗りました。振遠隊が解散したのは明治五年二月で、海援隊の名残りをとどめる集団はそこで消えています。
明治二十九年六月五日、男爵
維新後の歩みは、長崎少参事から始まって工部省記録局長、秋田県令、長崎県令、元老院議官、千葉県知事、農商務次官、そして高知県知事と続きます。明治二十九年六月五日に男爵を授けられ、明治三十一年からは貴族院の男爵議員をつとめました。この叙爵の日付には、もう一つの意味があります。同じ日に中島 作太郎(中島信行)も男爵になっているのです。長崎で同じ隊にいた二人が、三十年後の同じ日に揃って華族に列したことになります。明治三十四年四月、六十三歳で亡くなりました。



