松崎藩(久留米藩支藩)/有馬家1万石:有馬豊祐 親族の窪田藩主土方雄隆継嗣問題に巻き込まれて廃藩

【藩名】
松崎藩(久留米藩支藩)

【説明】
松崎藩は江戸時代前期に存在した久留米藩の支藩です。藩庁は筑後国御原郡松崎(福岡県小郡市松崎)の松崎陣屋に置かれていました。寛文8年(1668年)、久留米藩第3代藩主「有馬頼利」の遺領から、有馬豊祐(久留米藩第2代藩主忠頼の養子)に御原郡内1万石が分与されて立藩しました。

豊祐は松崎街道を開設し、城下の松崎宿を整備するなど藩政に尽力しました。しかし貞享元年(1684年)、豊祐は実姉の夫である陸奥窪田藩主「土方雄隆」の後継者問題に巻き込まれ、親族として解決に力を尽くさなかったとして改易されました。旧領地は幕府直轄領となったのち、元禄10年(1697年)に久留米藩に還付されました。

目次

本家・久留米藩との関係

松崎藩は、筑後の久留米藩の支藩で、有馬家の分家が一万石を領しました。

ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。親族である窪田藩主・土方家の継嗣問題に巻き込まれるなどして、江戸時代の早い時期に廃藩となりました。以後、その地は本家・久留米藩が治めています。幕末の久留米藩の動きは本家のページをご覧ください。

十六年で終わった藩

松崎藩は、久留米藩の有馬家から分かれた一万石の小藩です。

藩祖の有馬豊祐は、久留米藩初代・有馬豊氏の外孫にあたります。実父は出石藩主の小出吉重で、母が豊氏の娘でした。久留米藩二代の有馬忠頼の養子となりましたが、その後に忠頼へ実子が生まれたため、寛文八年(1668年)八月二十一日に幕命で筑後国御原郡一万石を分け与えられ、松崎藩を立てました。地元の資料では「有馬豊範」と表記されます。

陣屋は寛文九年(1669年)春に着工し、四年をかけて寛文十二年(1672年)に完成しました。二重の濠をめぐらせた大がかりなものだったと伝わります。

ところが貞享元年(1684年)七月晦日、藩は改易されます。理由は豊祐自身の落ち度ではなく、姉婿である土方雄隆の家中騒動、いわゆる陸奥窪田藩騒動への連座でした。松崎館は破却され、豊祐父子は久留米城に蟄居となります。赦免は元禄五年(1692年)、豊祐が没したのは元禄十三年(1700年)でした。藩の寿命は十六年です。

薩摩街道の宿場町として生き延びた

藩は消えましたが、町は残りました。というより、藩ができたことで町が生まれています。

延宝六年(1678年)、薩摩街道が「天下道」と定められました。松崎藩ができたことで参勤交代の経路が横隈経由から松崎経由へ変わり、松崎は宿場町として整備されます。薩摩の島津、熊本の細川、柳川の立花と、九州の主だった大名がここを通りました。

見どころは「構口(かまえぐち)」です。宿場の南北の出入口に築かれた石垣で、松崎には南北あわせて四か所が現存します。両側に四メートル四方、高さ二メートルほどの石垣が向かい合い、北の枡形は当時のままの鍵型を残しています。構口の石垣がこれだけまとまって残る例は全国的にも珍しく、小郡市の史跡に指定されました。

旅籠も残っています。旧松崎旅籠油屋は江戸後期の建築とみられる北部九州でも大型の旅籠で、一般の旅人を泊める「主屋」と身分の高い客のための「座敷」が棟を分けて建ち、宿場内では本陣・脇本陣に次ぐ格でした。平成十三年十二月に小郡市の有形文化財に指定され、平成三十一年三月に江戸時代の姿へ復原されています。乃木希典がここで昼食をとったことが日記から確かめられており、西郷隆盛が泊まったという言い伝えも残ります。

陣屋の主郭跡は、いまの福岡県立三井高校の敷地です。平成九年の発掘で南北およそ二十五メートルの空堀が確認されました。延宝八年(1680年)に豊祐が移した霊鷲寺は、参勤交代の大名が寺の前で駕籠を下りて拝礼して通ったと伝わります。

幕末の久留米藩

本家の久留米藩は二十一万石で、幕末の藩主は十一代の有馬頼咸です。

嘉永五年(1852年)、家老脇の稲次正訓が主君廃立の陰謀を申し立て、頼咸は藩政の指導部を捕縛しました。ところがのちに陰謀そのものが虚偽と判明し、尊王攘夷派が失脚します。このとき蟄居させられたのが真木保臣でした。

真木保臣、通称を和泉守は、久留米の水天宮の神職の家に生まれた人です。文政六年に神職を継ぎ、天保三年に従五位下・和泉守となりました。嘉永五年の建白で罪を得て水田村の「山梔窩」に十年ほど幽閉され、そこを平野国臣や清河八郎が訪ねています。文久三年の八月十八日の政変では七卿とともに長州へ下り、元治元年七月十九日の禁門の変に主戦派として加わりました。敗れて天王山に十七人で籠り、自刃しています。

藩そのものは佐幕開明派が主導して海軍の整備を進めていましたが、慶応四年に尊王攘夷派が復権し、戊辰戦争では「応変隊」を組織して新政府側で出兵しました。ところがこの応変隊が明治になって問題を起こします。明治三年から四年の久留米藩難事件です。山口藩で反乱を起こした大楽源太郎を久留米が匿ったことが発覚し、明治四年三月に東京の藩邸が接収され、知藩事の頼咸は弾正台の取り調べを受けて謹慎しました。藩は関与を隠すため三月十六日の夜に大楽を筑後川の河畔で殺害しています。小河真文は斬首、水野正名は終身禁錮となり、処分者は五十名ほどにのぼりました。

久留米城の跡は、本丸に篠山神社と有馬記念館があり、月見櫓や巽櫓の石垣が残ります。明治の廃城で石垣も解体されかけましたが、これは阻止されました。昭和五十八年に福岡県の史跡に指定されています。

【場所・アクセス・地図】

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