対馬府中藩(厳原藩)の歩み
天正十五年(1587年)、豊臣秀吉が九州を平定したとき、宗氏は秀吉に従うことを決め、対馬の領地をそのまま認められました。天正十八年(1590年)には、当主「宗義智」が従四位下侍従・対馬守に任ぜられています。
江戸時代後期に入ると、周辺海域に欧米の船が出没するようになり、安政五年(1858年)には沿岸の防備を重要視した幕府が朝鮮貿易を幕府直轄とし、宗氏を河内国に十万石で転封する計画を立てました。このとき、宗氏の家臣の中には、山がちで米の取れない対馬を離れ、九州本土へ移るべきだと言う者もいました。しかし宗氏には中世から対馬を治めてきた家だという誇りがあり、家臣の多くも島に根を下ろして暮らしていたため、国替えの話はまとまりませんでした。対馬藩はこのあと、朝鮮との外交と貿易を担う藩として江戸時代を通します。
幕末の万延二年(文久元年、1861年)、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬の浅茅湾に入り、錨を下ろしました。同じころイギリスの軍艦も、測量を名目に対馬の沖に姿を見せています。対馬が、大国どうしの取り合いの的になりかけていたのです。ポサドニック号の乗組員は芋崎に上陸して兵舎や工場、練兵場まで建て、半年あまり居座ったうえ、15代藩主の宗義和に土地を貸すよう迫りました。小さな対馬藩の手には負えず、幕府は外国奉行の小栗忠順を送って交渉させますが、ロシア側は動きません。最後はイギリス公使オールコックがロシアに強く抗議し、イギリスの軍艦も差し向けたことで、ロシア艦はようやく島を去りました。このとき交渉にあたった小栗忠順は艦長ビリレフと三度談判しましたが、いずれも実を結ばず、責任を取って役を辞しています。

この出来事は「対馬事件」または「ポサドニック号事件」と呼ばれます。交渉に失敗した小栗は、責任を取る形で外国奉行を辞めています。元治元年(1864年)の「第一次長州征伐」で長州藩が敗北すると、藩主「義達」の伯父にあたる「勝井員周」が保守俗論党(佐幕派)と共にクーデターを起こし、藩の主導権を握っていた義党(尊王攘夷派)の家老「大浦教之助」ら100余名を処刑しました。しかし慶応元年(1865年)に勝井ら保守俗論党も義党の残党によって暗殺されるなど、若年の藩主の下で混乱が続きました。
慶応四年(1868年)の「戊辰戦争」では、早くから新政府に与して大坂まで軍を進めました。明治二年(1869年)の版籍奉還で、藩主の宗義達はそのまま藩知事となり、藩の名も厳原藩と改められました。このとき、城下の「対馬府中」という地名も「厳原」に変わっています。
明治四年(1871年)七月の廃藩置県で厳原県となり、のちに伊万里県に組み込まれました。明治五年(1872年)、伊万里県は佐賀県に改められ、さらに三潴県に合併され、最終的には長崎県の管轄となりました。
国書を書きかえた藩—柳川一件
対馬の宗家は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で断たれた朝鮮との国交を、江戸時代のはじめに回復させた家でした。ところがその過程で、宗家は日本と朝鮮のあいだで交わされる国書を、双方の体面が立つように書きかえたり、偽造したりしていました。寛永八年(1631)ごろ、家老の柳川調興(しげおき)が藩主の宗義成と対立し、この国書の偽造を幕府に訴え出ます。幕府は寛永十二年(1635)、三代将軍家光の前で両者を裁き、朝鮮との外交を担う宗家の役割を重んじて義成を許し、調興を津軽へ流しました。この「柳川一件」のあと、幕府は京都の禅僧を対馬に送って外交文書を管理させるようになります。
朝鮮通信使と雨森芳洲
宗家は、将軍の代替わりなどに朝鮮から送られる朝鮮通信使を、対馬から江戸まで案内する役目も担いました。江戸中期に対馬藩に仕えた儒学者・雨森芳洲は、朝鮮語と中国語に通じ、朝鮮との外交にあたって「誠信の交わり」、つまり互いに欺かず争わず、真心をもって交わることの大切さを説いたことで知られます。
宗家の城と墓所
宗家の城下・厳原には、金石城の跡と、歴代藩主の墓所である万松院が残っています。万松院の墓所へは「百雁木(ひゃくがんぎ)」と呼ばれる長い石段が続き、巨大な杉の木立のなかに宗家の墓が並ぶ姿は、日本三大墓地の一つに数えられることもあります。朝鮮との外交の窓口を担い続けた小さな島の大名家の、誇りを伝える場所です。
対馬府中藩をもっと詳しく
宗氏のはじまり
宗家の家伝では、鎌倉時代のはじめに大宰府の少弐(武藤)資頼の家来として、対馬で最大の豪族・阿比留氏を討った宗重尚を初代とし、重尚は平知盛の孫だと伝えています。ただし実際には、大宰府の役人だった惟宗氏の流れとみられています。宗氏は少弐氏の守護代・地頭代として対馬で力を伸ばし、確かな記録に残る最初の当主・宗助国は、文永十一年(1274年)の文永の役で元軍と戦って亡くなりました。室町時代には、幕府からも対馬の領主として認められるようになります。
戦国の当主・宗義智
本文に登場する宗義智は、宗家の二十代当主です。豊臣秀吉の朝鮮出兵では、天正十九年(1591年)に対馬から五千人を動員し、小西行長の一番隊に入って全軍の先頭に立ちました。そのいっぽうで、行長とともに日本側の外交も受け持ち、講和の道を探ったとされます。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍につき、自らは伏見城攻めに加わり、大津城攻めと関ヶ原の本戦には家臣を送りました。それでも戦後は徳川家康に許され、以後は徳川家に仕えています。
領地のようす
領地は対馬の島全体(今の長崎県対馬市)で、島は府中(厳原)と、豊崎・佐護・伊奈・三根・仁位・与良・佐須・豆酘の八つの郷に分けて治められました。このほか九州本土の肥前国にも、基肄郡の田代領と浜崎(今の唐津市浜玉町)という飛び地を持っていました。
藩は「十万石格」の国主として扱われましたが、これは家の格式で、実際のとれ高ではありません。島の実際の収穫は米四千五百石、麦一万五千石ほどとされ、肥前の飛び地を除けば、ほとんど石高がないに等しい藩でした。
米のとれない藩は、どうやって収入を得たのか
藩の収入の中心は、朝鮮との貿易でした。朝鮮の釜山には「倭館」と呼ばれる日本人の居留地があり、およそ十万坪の敷地に、五百人から千人の藩士や島の人々が住んで取引をしていました。
しかし貿易がふるわなくなると、藩は幕府の助けに頼るようになります。安永五年(1776年)からは毎年一万二千両の給付を受け、安永九年(1780年)には幕府からの借金が十五万二千両にふくらんで、返済を待ってもらうよう願い出ています。朝鮮通信使をもてなす費用なども、幕府から下されたり貸されたりしていました。
藩主家の明治以降
明治十七年(1884年)の華族令で、宗義達は伯爵となりました。宗家の石高からすれば本来は子爵にあたる家ですが、朝鮮との外交を長く担ってきた家柄が考えられたとみられています。
兵の動員について
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものは、一万石あたりの人数で兵を割り出す物差しです。ただ対馬府中藩は、格式の「十万石格」と実際のとれ高が大きく離れているため、この物差しをそのまま当てはめることはできません。実際に動員した人数としては、前に触れた文禄の役の五千人が記録に残っています。
参考:Wikipedia「対馬府中藩」「宗氏」
場所・アクセス・地図
参考資料:Wikipedia日本語版「対馬府中藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。


