順助(高松太郎変名) 宛
| 原文 |
| 先日も愚書さし出申候。御返書いまだ達し不申、然に彼寺田屋のよくめの金於私でふつごふに候間、元と金百両が出来ねば先日さし出候書の如く、去年よりの利金十八両だけなりとも、此使へ御渡し奉願候。せめて利なりとも渡しことわり不置ては、何分ふつがふに候。御ゆづう可被下候。其為人さし出申候。但使の名大浜三郎平がさしつかへ居候所へ参り候間、此者へ金御渡可被下候。一両日出来ぬ位いなれば、三郎平を大坂にとゞめ置候間、早々御周旋にて右金御渡奉願候。頓首。十一月十日 龍馬順助大人 |
| 現代文 |
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先日も手紙を差し上げましたが、お返事がまだ届きません。例の寺田屋の金のことで私は困っていますので、元金の百両ができないのであれば、先日の手紙に書いたとおり、去年からの利息の十八両だけでも、この使いに渡してください。せめて利息だけでも渡して断りを入れておかなければ、どうにも具合が悪いのです。ご融通ください。そのために人を差し向けます。 使いの者の名は大浜三郎平です。この者が参りますので、この者にお金を渡してください。一日二日でできないようであれば、三郎平を大坂にとどめておきますので、早々にお骨折りいただき、右のお金を渡してください。頓首。 十一月十日 龍馬 順助大人(高松太郎の変名:龍馬の甥) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
甥・高松太郎(変名・順助)へ宛てた手紙で、資金の融通を切実に頼んでいます。先の手紙に返事がないこと、寺田屋の元金百両が用意できなければ、せめて去年からの金利十八両だけでも送ってほしいこと、利息すら断られては不都合が生じることなどを、率直に訴えています。大事を成す裏で、地道な資金繰りに苦心する龍馬の一面がのぞく一通です。
宛先「高松太郎」とはどんな人物か

龍馬の甥で、海援隊士として龍馬を支えた人物です。のちに坂本直と名乗り、龍馬の跡を継ぎました。身内であればこそ、龍馬は金銭の込み入った相談も打ち明けています。
この手紙が書かれたころ
天下の大事に奔走しながらも、活動を支える資金の工面に苦労していたころの龍馬です。理想を追う裏で、こうした現実の困難とも向き合い続けていました。志士たちの活動は、多くの資金を必要としました。表向きの華やかな政局の裏で、その活動を支える金銭のやりくりが絶えず続いていました。海援隊の活動もまた、資金の確保が大きな課題でした。龍馬は身内の力も借りながら、組織を維持するための工面に努めていました。
暗殺の五日前、伏見の借金と使いの大浜三郎平
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この手紙を「続」の十八番に収め、宛先を順助、日付を慶応三年十一月十日と推定しています。本文にあるのは「十一月十日」だけで、年は宮地の推定です。宮地が同じ十一月十日付で収める林謙三あての手紙(百十八番)では、龍馬が大極丸をめぐって苦心する林を気づかっています。高知県立坂本龍馬記念館によれば、龍馬が京都の近江屋で暗殺されたのは十一月十五日で、推定どおりなら、この催促はその五日前に書かれたことになります。
原文の「使の名大浜三郎平」は、使いに立った人物の名が大浜三郎平であることを示しています。宮地が慶応三年五月中旬とする寺田屋伊助あての手紙では、宛名に伏見京橋の回船宿として「大浜濤次郎事 寺田屋伊助様」とあり、寺田屋の側にも「大浜」の名が見えます。ただし三郎平と寺田屋の関係は、この手紙からは分かりません。宛名の順助は、記念館が紹介する太郎の変名「小野淳輔」と同じ読みです。
同じころの京都—近江屋の龍馬
京都の龍馬 慶応三年(1867)十月、龍馬は宿を酢屋から、河原町の醤油商・近江屋(井口新助方)に移していました。幕府の見廻組や新選組が龍馬の身辺を探っていることは知られており、近江屋では土蔵の中に隠れ部屋が設けられていたとも伝えられます。それでも龍馬は、新しい政府づくりのために人と会い続けました。
宛名の順助(高松太郎) 宛名の順助は、龍馬の甥の高松太郎のことです。高松は海援隊の隊士として龍馬のそばで働き、龍馬の死後、その跡を継いで坂本直と名のりました。この手紙は、龍馬が亡くなるわずか五日前のものです。
暗殺の五日前、龍馬と寺田屋
寺田屋への借り
この手紙で龍馬は、伏見の寺田屋の金のことで困っていると書いています。元金の百両が無理なら、去年からの利息十八両だけでも渡してほしいと頼んでいます。寺田屋は、慶応二年一月に龍馬が襲われた宿であり、女将のお登勢がお龍を預かってくれた家でもありました。世話になった寺田屋に、せめて筋を通しておきたいという龍馬の律儀さがうかがえます。
福井から戻った龍馬
大政奉還ののち、龍馬は十月の末に越前の福井へ出向き、松平春嶽に会ったほか、財政に通じた三岡八郎(のちの由利公正)と語り合いました。新しい政府には、まず金の仕組みが要ると考えていたからです。十一月の初めに京都へ戻った龍馬は、河原町の醤油商・近江屋に身を寄せていました。
五日後の夜
この手紙を書いた五日後の十一月十五日の夜、龍馬は近江屋で中岡慎太郎とともに襲われました。手紙に書かれた寺田屋の借金が、そのあとどうなったのかは分かっていません。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



