寺田屋お登勢 宛

寺田屋お登勢 宛

原文
何かお咄しハ妻より申上べく、来年ハ上京致し候ま〃御目にか〃り候。龍子が老母元より御家計の御セ話ニ候。猶よろしくおしかり被下度、実ニヘチヤクチヤ別りかね候人なれバ、実に御気のどくニ存候。早々。十一月廿日龍おとせさま取巻の抜六参らセ申
現代文
詳しいお話は妻より申し上げます。来年は上京しますのでお目にかかりたいです。お龍(龍馬の妻)の老母は、もとからお宅で暮らしの面倒を見ていただいております。宜しく面倒を見て下さい。なお、よく叱ってやってください。実にぺちゃくちゃと分かりかねる人なので、ご迷惑をおかけしてお気の毒に存じます。11月20日龍馬お登勢様(寺田屋の女将)取巻抜六※取巻の抜六(うまく寺田屋の取り巻きから襲撃を逃げ切った龍馬自身の変名で冗談です)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「詳しい話は妻から伝えます。来年は上京してお目にかかりたい。妻の龍子(お龍)が祖母のもとを離れ、寺田屋で世話になっています。どうかよろしく面倒を見てやってほしい。何かと要領を得ない人だが、気の毒に思う」という、妻お龍を寺田屋に預ける挨拶の手紙です。十一月二十日付。龍馬が安心してお龍を託せる先が、寺田屋だったことがよくわかります。

宛先「お登勢」とは

お登勢は寺田屋の女将で、妻お龍を養女同然に世話した恩人です。龍馬にとって、家族ぐるみで頼れる大切な存在でした。

この手紙が書かれたころ

各地を飛び回る龍馬にとって、妻を信頼できる寺田屋に預けられることは大きな安心でした。妻への細やかな気づかいが、手紙ににじんでいます。志士たちの妻は、夫の長い不在を支えていました。彼女たちを陰で守った市井の人々の存在も、忘れてはならないものです。脱藩した龍馬は郷里に妻を置くことがかなわず、京都の寺田屋を頼りました。藩を離れた身の、やむにやまれぬ工夫でもありました。

「実ニヘチヤクチヤ」—お龍の母のこと

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応二年十一月二十日のものとしています。原本は京都府の所蔵です。詳しいことは妻から申し上げる、来年は上京するのでお目にかかる、龍子の老母がもとから家計の世話になっている、どうかよく叱ってやってほしい、実にへちゃくちゃと分からないことを言う人なので、本当に気の毒に思う—と、伏見の寺田屋のお登勢に宛てています。

「龍子」はお龍のことで、この年の正月に寺田屋で龍馬が襲われたあと、二人は正式に夫婦となり、薩摩へ湯治の旅に出ました。その後お龍は下関で暮らすようになりますが、京都に残ったお龍の母の暮らしは、お登勢が面倒を見ていたことがこの手紙から分かります。妻の母のわがままを、妻の養い親に詫びているわけで、龍馬の家族の事情がそのまま出ている一通です。追伸の「取巻の抜六」は、宮地の注によれば「抜(ヌケ)六」と読みます。

同じころの日本—慶応二年の暮れ

世の中では 慶応二年の暮れは、幕府にとって大きな節目でした。十二月五日に徳川慶喜が将軍となり、フランス公使ロッシュの助言を受けた幕政改革が始まります。翌年のパリ万国博覧会に、慶喜の弟・徳川昭武を送る準備も進められていました。ところが十二月二十五日、慶喜を信頼していた孝明天皇が急に亡くなり、政局の先行きは見えなくなります。

寺田屋のお登勢 伏見の船宿・寺田屋の女将お登勢は、この年の正月に龍馬が襲われた寺田屋事件のあとも、龍馬とお龍を気にかけ続けました。お龍の母の暮らしぶりにまで龍馬が気を回していることが、この手紙から伝わります。

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