坂本乙女 宛
| 原文 |
| かの小野小町が名歌よみても、よくひでりの順のよき時ハうけあい、雨がふり不申。あれハ北の山がくもりてきた所を、内よくしりてよみたりし也。につただ々つねの太刀おさめてしほの引しも、しほ時をしりての事なり。天下に事をなすものハねぶともよく々はれずてハ、はりへハうみをつけもふさず候。おやべどのハ早、子ができたなど〃申人あり、いかゞ私しがい〃よるというておやり、かしこ。六月廿八日龍馬おとめさまへ此手がみ人にハけして々見せられんぞよ、かしこ。 |
| 現代文 |
| あの小野小町の歌を見てみよ、日照りの時の雨乞いの歌は、雨が降る見込みがあるときに請け合って歌うから雨が降るのである。あれは北の山が曇ってきたのを内々によく知っていて読んだ歌である。新田義貞が太刀を投じて潮が引いた古事も、潮が引くことを知っていてのことである。天下に事をなす者も、腫れものと同じで、よくよく腫れてからでなければ、針を刺しても膿は出ない(機が熟すのを待たねばならない)。おやべどのに子ができたと言う人もいます。その子に龍馬がいいよるよ、と言っておやり。6月28日龍馬乙女様へこの手紙は決して人に見せてはいけないよ。 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
姉・乙女へ宛てた、たとえ話に富む思索的な手紙です。小野小町の雨乞いの歌や、新田義貞が太刀を海に投じて潮を引かせた故事を引きながら、天下に事をなす者は「機」を見極めねばならぬ、腫れものもよく腫れてからでなければ膿は出せぬ、と説いています。おやべに子ができたといううわさにも触れ、龍馬の教養と機略の一端がのぞく一通です。
宛先「坂本乙女」とはどんな人物か
龍馬の姉で、弟のこうした議論めいた話にも付き合える聡明な女性でした。龍馬は姉を相手に、思うところを比喩を交えて存分に語っています。
この手紙が書かれたころ
時勢を冷静に見極め、いつ動くべきかを計りながら活動していたころの龍馬です。血気にはやる攘夷とは一線を画し、機が熟すのを待って大事を成そうとする、後年の周旋家らしい姿勢がすでに表れています。急進的な攘夷運動が挫折を重ねる一方、公武の間で政局の主導権をめぐる駆け引きが続いていました。力任せではなく機を計って動くことの重要さが、志士たちの間でも意識されはじめた時期です。土佐勤王党が弾圧される一方、龍馬は藩の外で独自の道を歩んでいました。「機を見て動く」というこの手紙の思想は、のちに薩長を結びつける周旋にも通じる、龍馬の一貫した信条でした。
池田屋の変の二十三日後、「腫れものは熟してから」
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この手紙を十四番に収め、元治元年六月二十八日の坂本乙女あてとしています。本文の日付は「六月廿八日」だけで、年は宮地の比定です。底本では、原本は土佐山内家宝物資料館の所蔵とされています。高知県立坂本龍馬記念館によれば、この年の六月五日に京都で池田屋の変が起こり、神戸の海軍操練所からも加わった者がいました。手紙は事件にふれていませんが、宮地の比定どおりなら変の二十三日後にあたり、七月には禁門の変が続きます。
「ねぶともよく/\はれずてハ、はりへハうみをつけもふさず」は、腫れものはよくよく腫れてからでなければ、針を刺しても膿は出ないという意味で、機が熟すのを待てという喩えです。宮地は「につただゝつね」に(ママ)と付け、龍馬の書いたとおりであることを示しています。剣を投じて潮を引かせたという稲村ヶ崎の伝説の主は新田義貞で、龍馬の書いた名とは食い違っています。追伸では「此手がみ人にハけして/\見せられんぞよ」と、人に見せないよう重ねて念を押しています。
同じころの京都—禁門の変の前夜
京都では 元治元年(1864)六月五日の池田屋事件で多くの志士を失った長州藩は、藩の名誉を取り戻そうと兵を京都へ向けました。この手紙が書かれた六月の終わりには、長州の軍勢が伏見・山崎・嵯峨の天龍寺などに陣を構え、京都を囲むように迫っていました。御所を守る会津・薩摩などの兵とのにらみ合いは、七月十九日の禁門の変となって爆発します。
龍馬のまわりでは 池田屋事件では、龍馬と同じ土佐の北添佶摩や、神戸の海軍操練所で学んでいた望月亀弥太が命を落としていました。龍馬はこのころ、行き場を失った浪士たちに海や北の大地で生きる道を与えられないかと考えていたと伝えられます。
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