浜田城:家康より古田重治が拝領し幕末には松平武聡が長州藩の攻撃により城を焼失 浜田城【お城特集 日本の歴史】

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扇原関門で長州軍を阻んだ岸静江

石州口の戦いは、戦火が浜田の城下へ届く前に、一人の藩士の名を残しました。浜田市観光協会の説明によりますと、岸静江は万延元年に藩主松平武聡の近習として召し出され、慶応二年に家督を継いで禄高百十石の物頭席となります。同年六月十六日、津和野藩との境にある扇原関門を、配下の武士五人と近くの村の農民を加えた二十人ばかりで固め、押し寄せた長州軍から開門を迫られても断固としてこれを拒みました。相手は八百名、一説には千二百名とも伝わります。至近から撃たれた弾が胸腹を貫き、長槍を手にしたまま息絶えたと語られ、その最期は敵味方の双方から称えられ、手厚く葬られました。

七月十八日の自焼退城と、焼け残っていた天守

浜田市の説明では、浜田藩は慶応二年七月十八日に自焼退城という道を選び、元和九年に城と城下が整ってからの二百四十八年に幕を下ろします。退城の折の様子は、松平武聡の夫人寿子が松江藩主へ宛てた手紙に書き残されました。長らく天守もこのときに焼けたと考えられてきましたが、近年新たに見つかった資料から、同年七月二十三日に天守へ保管していた台帳などを取りに行った事実が判明し、城内は焼けても天守は焼け残っていたことが明らかになりました。本丸に建っていた三重櫓は、高さおよそ十四メートルと伝わります。

島根県の指定史跡となった亀山の石垣

城跡は昭和三十七年六月十二日に島根県の指定史跡となりました。護国神社の参道脇には中ノ門の石垣、本丸の手前には二ノ門の正面中央の石垣が残る一方で、内堀は都市水道の事業によって姿を消しています。明治四十年には松平武修子爵が御便殿を建てており、これを浜田城資料館として活かす取り組みも進められています。

浜田城について

浜田城は島根県浜田市殿町にあった平山城です。大坂の陣の功績により「古田重治」が家康より五万四千石にてこの地に入封し城や城下町を築きました。

浜田城/アクセス・場所・地図 家康より古田重治が拝領し幕末には松平武聡が長州藩の攻撃により城を焼失 浜田城【お城特集 日本の歴史】

二代当主「古田重恒」の時にお家騒動が勃発し改易されました。その後、松平康映が入封し5代続いたあとは次々と譜代大名や親藩大名が入れ替わり城主に任命されます。幕末時の浜田藩は「松平武聡」が当主で「大村益次郎」率いる長州藩の攻撃を受け、城を捨て後退し浜田城は焼失しました。

浜田城/アクセス・場所・地図 家康より古田重治が拝領し幕末には松平武聡が長州藩の攻撃により城を焼失 浜田城【お城特集 日本の歴史】

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現在の浜田城跡は「城山公園」として整備されているほか、石垣や土塁などの遺構が残っています。また、昭和四十二年(1967年)には津和野藩武家屋敷の門が浜田城跡の山麓に移築されました。

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浜田藩と竹島事件

密貿易の発覚 浜田城の城下では、天保年間に大きな事件が起きました。浜田の廻船問屋・会津屋八右衛門が、日本海の竹島(いまの鬱陵島)へ渡って木材などを持ち帰り、ひそかに外国と交易していたことが発覚したのです。天保七年(1836)、八右衛門は幕府に捕らえられて処刑されました。

藩主の転封 この密貿易には浜田藩の家老らもかかわっていたとされ、家老は切腹し、藩主の松平康任の家は陸奥の棚倉へ移されました。康任はかつて老中を務めた人物でしたが、この事件で失脚します。その後、浜田には松平(越智)家が入り、幕末の藩主・松平武聰のときに長州軍との戦いを迎えることになります。

長州は三つの口から入ってきた

石州口の戦いは、浜田だけを狙った戦いではありませんでした。

慶応二年六月十五日の夜半、長州の軍は石見へ入ります。津和野へ向かった隊を率いたのが杉孫七郎、益田へ向かった隊が滝弥太郎、そして全体の参謀が大村益次郎でした。翌十六日、扇原関門で岸静江が討たれます。

三つの口から同時に入られて、関門が一日で破られ、そこから一か月で城を焼いて退く。浜田藩の慶応二年は、六月十五日から七月十八日までのひと月あまりに凝縮されています。

藩主は背負われて城を出た

自焼退城のとき、藩主の松平武聡は病の身でした。浜田市の説明によりますと、武聡は家臣の生田精に背負われて城を出て、唐鐘浦で一行と合流します。

そこから海路で七月二十四日に松江へ入り、のちに飛び地のあった美作の鶴田へ移りました。松江で落ち着いたのではなく、松江を経て鶴田へ、という二段の移動です。慶応四年には藩の名そのものが鶴田藩と改められ、浜田藩という名は消えました。

浜田県という名が五年だけあった

藩主が去ったあとの石見には、明治二年八月に大森県が置かれ、明治三年二月に浜田県と改められます。そして明治九年四月に島根県へ併合されました。

城を焼いて藩主が去り、藩の名が鶴田に変わり、残った土地には浜田県という名が六年ほど置かれて、それも消える。いま城山公園で石垣を見ていると静かな場所ですが、慶応二年から明治九年までのここは、名前が三度変わった土地でした。

浜田城の構造と、藩を支えた人びと

海と川を堀にした城

浜田城は、標高約68メートルの丘に築かれた梯郭式の平山城です。海と浜田川を天然の堀にしていました。本丸の北西隅には三重櫓が建って天守の役目を果たしていましたが、天守台はありません。

入れ替わった城主

古田重治が築いたのち、浜田城の城主は松平(松井)家、本多家と替わり、明和六年に松井松平家がふたたび入りました。天保七年(1836年)、竹島事件の責めを負って松井松平家は棚倉へ移され、代わって越智松平家が入っています。

大麻山の戦いと家老の切腹

慶応二年の石州口の戦いでは、七月十五日の大麻山の戦いに敗れたことで、浜田藩の守りは崩れました。城を退いたのち、藩は美作の飛び地へ移りましたが、家老の尾関隼人は明治元年に京都で切腹しています。城跡は昭和三十七年に島根県の史跡に指定され、平成二十九年には続日本100名城に選ばれました。

場所・アクセス・地図

島根県浜田市殿町

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