谷川藩の歩み
慶長元年(1596年)、和歌山城代であった「桑山重晴」がそれまで治めていた四万石の所領のうち、二万石を嫡孫の「桑山一晴」に譲り、一万石を次男の「桑山元晴」に分与し、残りの一万石を自身が治めたことから谷川藩が立藩されました。しかし慶長十四年(1609年)、重晴の後を継いだ孫の「清晴」は幕府より勘気を被って蟄居となり、所領も大和御所藩主である父の元晴が継ぐこととなりました。これにより谷川藩は廃藩となりその所領は御所藩に併合されました。
廃藩のあと—幕末の谷川
この藩も場所を正しておきます。所領が父・桑山元晴の大和御所藩に編入されたため大和の藩と思われがちですが、谷川藩の谷川は和泉国日根郡谷川村、いまの大阪府泉南郡岬町多奈川谷川です。紀伊水道に面した岬の突端にあたります。
桑山清晴が慶長十四年(1609年)に改易されたあと、この地は領主が変わり、十七世紀後半以降は常陸土浦藩・土屋氏の飛地領となりました。関東の藩が、紀淡海峡の岬を治めていたわけです。
その岬が幕末に緊張します。岬町の説明にこうあります。幕末には、この沖でも外国船の出没が頻発し、谷川の観音崎や豊国崎などに砲台がつくられました。紀淡海峡は大坂湾の入口です。ここを外国船に抜けられては、大坂も京も危ない。海防の最前線でした。
産業では「谷川瓦」が知られます。近世以降、全国に売られました。
なお清晴が改易された理由は、祇園の茶屋で女性たちに乱暴狼藉を働いたことを家康に咎められたためと伝わります。同席していた清水藩の稲葉通重も同時に改易されました。諸説あるとはいえ、一夜の振る舞いで一万石が消えたことになります。
『土佐日記』に出てくる地名
谷川という地名は古い記録に出てきます。『土佐日記』の承平五年(九三五年)正月三十日の条に「たなかはといふところをわたる」とあり、これが谷川だとされています。中世には奈良の興福寺領「谷川庄」でした。紀伊水道に面した岬の突端で、船が通る道筋にあたる土地です。
立藩の年も、二通りある
本文では慶長元年(1596年)に桑山重晴が隠居料として一万石を残したところから書いていますが、『日本歴史地名大系』は少し違う書き方をしています。「江戸時代初頭、当地付近は紀伊和歌山城代桑山重晴に与えられた。慶長一一年(1606)の重晴の死後、この地は孫の清晴に分与され谷川藩一万石が成立、当地はその藩庁所在地となった」というものです。つまり重晴の隠居領の段階を立藩とするか、清晴への分与を立藩とするかで、慶長元年説と慶長十一年説に分かれます。どちらで数えても、藩として続いたのは短い期間です。
清晴が被った「勘気」の具体的な理由は、資料では確認できません。陣屋を谷川に置いたとされますが、その正確な所在地も遺構も分かっていません。岬町の文化財の一覧にも、谷川藩・桑山氏・陣屋に関する項目はありません。
岬に残る三体の仏像
藩の痕跡は残りませんでしたが、仏像が残っています。多奈川谷川の興善寺にある木造大日如来坐像・薬師如来坐像・釈迦如来坐像の三体は国の重要文化財で、大正四年の指定です。興善寺は天台宗の寺で、仁寿二年(八五二年)に文徳天皇の勅願により慈覚大師が創建したと伝わります。
同じ岬町では、淡輪の船守神社本殿が国の重要文化財(昭和二十五年八月二十九日指定)、西陵古墳が国史跡です。府指定では深日沖出土陶磁器六箇(考古資料)、白峠山古墳・鴻ノ巣山第一号古墳・淡輪別所遺跡(史跡)、岬住吉神社のうばめがし社叢、払殿座神社のむく、船守神社のくす(いずれも天然記念物)があります。
瓦の産地でした
近代の谷川は瓦で知られました。「谷川瓦」と呼ばれ、岬町で盛んに製造されて、いまは岬の歴史館に展示されています。関東の土浦藩の飛地として幕末を迎えた岬の突端が、そのあと瓦を焼いて名を残したことになります。
茶人の一族と、和泉の港—谷川藩の桑山家
祖父・桑山重晴は秀吉の御伽衆
谷川藩主・桑山清晴の祖父・桑山重晴は、賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳砦を守った武将です。文禄四年(1595年)、伏見城大手門の守備の功で谷川一万石を加えられ、剃髪して「治部卿法印」と名のり、秀吉の話し相手である御伽衆になりました。千利休に茶を学んだ茶人でもあります。重晴が亡くなると、隠居料のうち一万石を孫の清晴が継ぎました。家格は外様です。
茶の家系
清晴の父・元晴は古田織部に茶を学び、秀忠の屋敷で茶を点てたことがあります。叔父の桑山宗仙は千道安の弟子で、のちに石州流を開いた片桐石州に茶を教えたとされます。利休、道安、織部、石州と、桑山家は茶の湯の主流のすぐそばにいました。同じく茶の家だった小室藩の小堀家とあわせて読むと面白いと思います。
谷川港—瓦と薪の港
谷川(いまの大阪府岬町多奈川)には、慶長年間に谷川港が開かれました。和泉瓦や薪炭の積み下ろしでにぎわった港です。のちに土砂がたまり、延宝から元禄にかけて港の位置が移されています。近代に入ると、昭和十九年(1944年)に軍需工場へ通う人のために南海多奈川線が開業し、戦後は深日港から淡路島・四国への航路が出ていました。
谷川は「海の藩」だった
清晴は改易され、藩は短く終わりましたが、谷川の港はその後も瓦と薪を運び続けました。茶の湯に生きた一族が預かったのが、海に面した小さな港町だったというのは、どこか不思議な取り合わせです。



