伊賀上野藩/筒井家20万石:筒井定次 外様大名の筒井氏が政務怠慢により改易された伊賀上野藩

目次

伊賀上野藩の歩み

大和の国「筒井順慶」は「織田信長」の家臣となって「松永久秀」を滅ぼし、大和一国の国主となりました。天正十二年(1584年)、順慶は35歳の若さで死去し、その後を養嗣子で従弟の「筒井定次」が継ぎました。そして翌年、「豊臣秀吉」の命によって定次は大和郡山から伊賀上野二十万石に移封となりました。

伊賀上野藩/場所・アクセス・地図 筒井家20万石:筒井定次 外様大名の筒井氏が政務怠慢により改易された伊賀上野藩【幕末維新写真館】

これは、秀吉が畿内における重要拠点である大和に、信用できる弟「豊臣秀長」を配して置きたいという考えからであったと言われています。

慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では東軍に与したが、徳川家康の会津征伐に従軍した際には、居城の伊賀上野城が西軍に与した摂津高槻城主「新庄直頼・直定」父子に攻め落とされました。しかし定次は関ヶ原の本戦で奮戦し、居城も奪還しました。

慶長十三年(1608年)六月、定次は政務を怠ったなどの理由から改易されました。徳川政権にとってなるべく外様大名は排しておきたいという魂胆があったと思われます。定次は「鳥居忠政」預かりとなり、伊賀上野藩は廃藩となりました。そして定次・順定父子は「大坂冬の陣」で豊臣秀頼に内通していたという嫌疑をかけられて、元和元年(1615年)に切腹し、筒井宗家は断絶しました。その後、上野には「藤堂高虎」が所有し伊勢津藩の一部に組み込まれました。

【廃藩のあと—幕末の伊賀】藩命を待たずに砲を撃った城代家老

伊賀上野の藩は慶長十三年(1608年)に筒井定次が改易されて消えました。以後、伊賀一国は藤堂高虎に与えられ、津藩の一部となります。高虎は慶長十六年(1611年)から上野城を大きく改修し、本丸の西に高さ三十メートルに及ぶ高石垣を築きました。

伊賀を預かった城代家老

伊賀の統治は、上野城に置かれた城代家老が担いました。寛永十七年(1640年)に藤堂采女元則が伊賀城代家老に取り立てられ、以後この采女家が伊賀の采配を任されます。知行は七千石で、家臣は百人を超え、侍のほか徒士や医師・僧侶まで抱える小さな家中を構えていました。藩校の崇広堂は、津藩の藩校である有造館の支校として文政の初めに建てられ、伊賀の子弟を教えました。旧崇広堂は昭和五年(1930年)に国の史跡となっています。

正月六日、藩命を待たずに

この土地の幕末でいちばん重い場面が、鳥羽伏見の戦いです。津藩は当初、旧幕府の側にありました。ところが慶応四年(1868年)正月、新政府の勅使が津藩の陣営に現れ、旧幕府軍への追撃を命じます。

伊賀城代家老の藤堂元施は、開戦から二日後の正月五日に勅書を受け取りました。そして翌六日、藩の指示を待たずに自ら決断し、藩兵を率いて淀川の対岸に陣取る幕府軍へ砲撃を始めたと伝えられます。橋本を守っていた津藩の兵が新政府側へ転じて幕府軍を撃ったことは、旧幕府軍が総崩れになる大きな要因になりました。城代が藩命を待たなかった—その判断が戦いの帰趨に関わったわけです。同月二十八日には藩兵四百三十三人が桑名藩領へ進軍しています。

無足人という身分

この砲撃を支えた鉄砲隊で働いたのが、伊賀の「無足人」です。三重県の説明では、無足人とは江戸時代に津藩に取り立てられた郷士のことで、藩は在村の有力な土豪層をこの身分に昇格させ、軍役の一角を担わせました。名字帯刀を許され、平時は百姓や庄屋として村の治安や裁判、救済の実務にあたり、有事には武士として戦う—武士と百姓の両方の性格を持つ身分です。藩は「無足人帳」を作って統制していました。

同じ伊賀の出でも、下級藩士として俸禄を受けた「伊賀者」は武家身分で、城や藩邸の警備、参勤の随行、情報の探索にあたりました。無足人は百姓の側です。そして維新後、無足人は士族になれず大部分が「卒」の扱いにとどまり、明治五年(1872年)に卒の身分が廃されると、その由緒を書き上げる調査が行われました。幕末に鉄砲を担いで戦った人たちが、明治の身分の線引きでは武士に入れなかったことになります。

私財で建てられた天守

上野城跡は昭和四十二年(1967年)十二月二十七日に国の史跡に指定されました。藤堂高虎が計画した五層の天守は完成前に倒壊し、以後再建されていません。いま建っている天守は、代議士の川崎克が私財を投じて昭和十年(1935年)に建てたもので、「伊賀文化産業城」として完成しました。昭和六十年(1985年)に市の有形文化財となっています。国史跡の石垣の上に、昭和の個人が建てた木造の天守が載っているという、少し変わった城跡です。

伊賀上野藩をもっと詳しく

先祖と定次の出自

筒井氏は大和の国人で、戦国時代に筒井順昭が大和をほぼ統一しました。その子が順慶です。定次は永禄五年(1562年)五月五日、慈明寺順国(筒井順国)の次男として生まれました。順慶は従兄で、母方の叔父にもあたります。順慶に子が無かったため養嗣子となり、筒井家を継ぎました。

二十万石の内訳と伊賀上野城

天正十三年(1585年)閏八月の国替えで定次が与えられた二十万石は、伊賀一国十二万石・伊勢国のうち五万石・山城国のうち三万石を合わせたものでした。伊賀だけの藩ではなく、三つの国にまたがる領地だったことになります。

伊賀に入った定次は、上野に新しく城を築きました。三重県の観光サイトの説明では、定次の城は現在の本丸広場の東側にあったとされます。のちに藤堂高虎が城を大きく広げて五層の天守を計画しますが、伊賀市の資料によると、完成間近の天守は慶長十七年(1612年)の大風雨で倒壊しました。城跡は今の三重県伊賀市にあります。

家臣の離反

筒井家では、伊賀へ移った翌年の天正十四年(1586年)、灌漑用水をめぐって重臣の中坊秀祐と島左近が争い、怒った左近が筒井家を去ったと伝わります。松倉重政、森好高、布施慶春といった有力な家臣も前後して筒井家を離れました。

慶長十三年(1608年)、定次の悪政や鹿狩りにふけっていることなどを家康に訴えたのも、この中坊秀祐でした。ただし、政務を怠ったことよりも、豊臣家に恩のある筒井氏が大坂に近い要地にいることを家康が危険とみたためとする説が有力とされています。

キリシタン大名としての定次

定次はキリスト教の洗礼を受けた大名でもありました。天正二十年(1592年)、三箇マンショの仲介でイエズス会のヴァリニャーノ神父と知り合い、洗礼を受けたとされます。三十一歳のときのことです。

筒井家のその後

定次と嫡男の順定が自害を命じられたあと、大和の筒井家は従弟の筒井定慶が継ぎました。定慶は慶長十九年(1614年)に徳川家康から一万石を与えられて郡山城代となりますが、翌年の大坂夏の陣で豊臣方の大野治房らに攻められて城を捨て、五月十日に福住で自刃したとされます。二十八歳でした。

それでも家は絶えず、定慶の子孫は大和の領地を失ったのちも旗本として続きました。幕末にロシアのプチャーチンと交渉した筒井政憲は、旗本久世家から筒井家に養子に入った人で、この旗本筒井家の当主です。戦国大名の筒井家の名は、日露和親条約の交渉の場にまで残ったことになります。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二十万石のこの藩はおよそ四千七百人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。筒井氏の時代はこの規定より前なので、あくまで石高の大きさをつかむための数字です。

参考:Wikipedia「伊賀上野藩」「筒井定次」「筒井定慶」「筒井政憲」、伊賀市の史跡解説資料、三重県観光連盟「観光三重」

場所・アクセス・地図

伊賀上野の現地を歩いた記録

伊賀上野藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

東海の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次