清洲藩/松平家47万2千344石:松平義直 関ヶ原の戦いで井伊直政と抜け駆けをした松平忠吉の異母弟義直が跡を継いだ清洲藩

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清洲藩の歩み

「福島正則」は慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で東軍に与して大きな戦功を挙げました。関ヶ原でのこの手柄により、福島正則は徳川家康から安芸広島四十九万八千二百石を与えられ、清洲から移っていきました。かわって清洲に入ったのが、家康の四男・松平忠吉です。忠吉は関ヶ原の戦いで、井伊直政とともに先陣を切って戦端を開き、退却する島津勢の島津豊久を討ち取る働きをしたとも伝えられます。この功で五十二万石を与えられ、清洲藩が生まれました。

清洲藩/場所・アクセス・地図 松平家47万2千344石:松平義直 関ヶ原の戦いで井伊直政と抜け駆けをした松平忠吉の異母弟義直が跡を継いだ清洲藩【幕末維新写真館】

ところが忠吉は慶長十二年(1607年)三月五日、江戸の芝浦で、労咳(結核)のためにわずか28歳で亡くなります。跡継ぎがいなかったため、清洲には忠吉の異母弟の義利(のちの徳川義直)が入りました。しかし義直は、新しく名古屋に城を築くことにします。そして藩の役所も城下町もそっくり名古屋へ移し、名古屋藩(尾張藩)を開きました。

清洲城は名古屋城の材料として使われて取り壊され、清洲藩もそこで終わりました。義直から始まる系統が徳川氏御三家のひとつ尾張徳川家となりました。

町ごと引っ越して、城は消えました

清洲藩が消えたのは、藩がつぶれたからではありません。城下町がまるごと名古屋へ移ったからです。いわゆる清洲越しです。名古屋城の公式の年表では慶長十五年(1610年)に築城が始まり、同じ年に清須からの遷府が始まったとされます。町の建設は慶長十七年ごろに進み、元和二年(1616年)ごろまでかかりました。清洲城が廃されたのは慶長十八年(1613年)とされます。年次は資料によって幅があり、一点に定めることはできません。

規模がすさまじいのです。社寺は三社百十か寺、町屋はおよそ二千七百戸のほとんどが移りました。清須城の小天守も名古屋へ運ばれています。城の資材が名古屋城の築城に再び使われたことは、清須市の説明にも記されています。

いま清洲城として建つ天守は、平成元年(1989年)に旧清洲町の町制百周年を記念して建てられた模擬天守です。しかも本来の天守台の位置ではありません。城跡は東海道本線と新幹線に分断されており、実際の天守台の側は五条川をはさんだ清洲古城跡公園にあたります。そちらには発掘で復元された本丸の石垣と「清洲古城阯」の碑、信長を祀る小さな社があります。

幕末の清須は尾張藩領でした。ここは東海道ではなく美濃路の清須宿です。美濃路は関ヶ原の吉例から「吉例街道」とも呼ばれ、朝鮮通信使や琉球王使、お茶壺道中が通り、将軍の上洛にも使われました。嘉永七年(1854年)の時点で本陣一軒、脇本陣二屋敷、旅籠三十軒。天明三年(1783年)には尾張藩の代官所が近くに置かれ、明治元年に「清洲邑宰所」と改称、明治四年四月に廃されます。本陣の建物は明治二十四年の濃尾地震で焼け失せました。

移った先の名古屋城は、幕末の戦火を免れました。危機はむしろ明治になってからで、陸軍の所管となって取り壊しの話が出ます。明治十二年(1879年)、姫路城とともに全国屈指の城として永久保存が決まり、その後は宮内省へ移されて名古屋離宮となりました。

信長が桶狭間へ出陣した城

清洲城は、織田信長が尾張統一の拠点とした城です。永禄三年(1560)五月、今川義元の大軍が尾張に攻め込んだとき、信長は清洲城で「敦盛」を舞ったのち、わずかな供回りで城を飛び出し、桶狭間で義元を討ち取りました。のちに信長は小牧山、岐阜、安土へと本拠を移しますが、清洲は織田家の尾張の中心であり続けました。

清洲会議—信長亡きあとの天下の行方

天正十年(1582)六月、本能寺の変で信長と嫡男・信忠が討たれたあと、織田家の重臣たちが跡継ぎと領地の分け方を話し合ったのも、この清洲城でした(清洲会議)。羽柴秀吉は信忠の遺児で三歳の三法師(のちの織田秀信)を当主に推し、柴田勝家らを抑えて主導権を握ります(岐阜藩)。清洲は、信長の時代の始まりと、その後の天下の行方が決まった場所でもあったのです。

清洲から名古屋へ—尾張藩の幕末

清洲越しによって生まれた名古屋の尾張藩は、徳川御三家の筆頭として幕末を迎えました。十四代藩主・徳川慶勝は、井伊直弼と対立して一度は隠居させられながら、のちに第一次長州征討の総督を務め、鳥羽伏見の戦いのあとには藩内の佐幕派を粛清する青松葉事件を経て新政府側につきます(尾張藩)。信長が天下へ向かって出発した清洲の町は、二百五十年後、御三家の筆頭が徳川の世の幕引きに手を貸す城下町に姿を変えていたのでした。

清洲藩をもっと詳しく

清洲藩ができるまでの城主たち

天正十年(1582年)の清洲会議のあと、清洲城には信長の次男織田信雄が城主として据え置かれました。しかし天正十八年(1590年)、小田原攻めのあとに駿河・甲斐への国替えを断った信雄は改易され、下野へ追われます。清洲は豊臣秀次の領地となりましたが、文禄四年(1595年)に秀次が謀反の疑いで切腹させられると、伊予で十一万三千石を領していた福島正則が二十四万石に加増されて清洲城主となりました。この正則が関ヶ原の手柄で広島へ移ったことで、清洲藩が始まります。

初代藩主・松平忠吉の歩み

松平忠吉は家康の四男として遠江の浜松城下に生まれました。天正九年(1581年)、松平一族の東条松平家の当主家忠が亡くなると、その家督を継いで三河東条城一万石を領します。翌年には駿河沼津城四万石へ移り、文禄元年(1592年)には武蔵忍城主として十万石を与えられました。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは自らも傷を負いながら戦い、戦後に尾張・美濃で五十二万石を与えられて清洲城に入りました。舅は徳川四天王の一人井伊直政です。

ただ一人の実子は幼くして亡くなり、忠吉には跡継ぎがいませんでした。慶長十二年(1607年)に忠吉が亡くなると、家臣の小笠原吉光ら四人が殉死し、忠吉が継いでいた東条松平家はここで絶えています。

二代目・徳川義直と後見役の平岩親吉

跡を継いだ義直は、慶長五年(1600年)十一月二十八日に大坂で生まれた家康の九男です。慶長八年(1603年)、四歳で甲斐国二十五万石(二十四万石とも)を与えられましたが、甲斐には入らず、家康や母の於亀(相応院)とともに駿府城で暮らしました。慶長十二年(1607年)閏四月二十六日、尾張国清洲城四十七万二千三百四十四石へ移されます。

幼い藩主に代わって国を動かしたのが、傅役の平岩親吉です。親吉は甲府城代として義直を支え、清洲への国替えのあとは犬山城主(十二万三千石)となって後見を続けました。実際の領国の経営は、親吉と甲斐の国奉行だった大久保長安があたったとされます。慶長十五年(1610年)二月、家康は名古屋に城を築かせて清洲から移すことを決め、義直自身が尾張に入ったのは家康が亡くなった後の元和二年(1616年)でした。義直は慶安三年(1650年)に江戸で亡くなっています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、義直が清洲に入ったときの四十七万二千三百四十四石でおよそ一万千百人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。また清洲藩は慶安より前に名古屋へ移って消えた藩なので、これは後の時代の物差しを当てた参考値です。

参考:Wikipedia「清洲藩」「松平忠吉」「徳川義直」

場所・アクセス・地図

参考資料:Wikipedia日本語版「清洲藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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