武蔵小室藩/伊奈家1万3千石:伊奈忠勝 忠勝が夭折したため無嗣断絶にて廃藩

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武蔵小室藩の歩み

豊臣秀吉による「小田原征伐」後、関東に入封した「徳川家康」は、譜代の家臣「伊奈忠次」に小室などの領地を与えました。これが小室藩の立藩です。(現在の伊奈氏館跡)

武蔵小室藩/場所・アクセス・地図 伊奈家1万3千石:伊奈忠勝 忠勝が夭折したため無嗣断絶にて廃藩【幕末維新写真館】

忠次は慶長十五年(1610年)六月に病死し、後を嫡男の「伊奈忠政」が継ぎました。忠政は「大坂の陣」で戦功を挙げたが、元和四年(1618年)三月に死去ししてしまいます。その後を「伊奈忠勝」が継いだが、忠勝も翌年八月に9歳にて夭折してしまいます。

9歳の幼児「忠勝」に嗣子がいるはずもなくここに伊奈氏は無嗣断絶で改易となり小室藩も廃藩となりました。しかし幕府は、家康時代の功臣の家系が絶えることを惜しみ、特別の計らいで忠勝の弟「伊奈忠隆」に旧領小室のうちで千百八十六石を与え、旗本として家名を存続させました。そして、旗本伊奈氏は明治維新まで存続しています。

幕末の当主まで、九代の名が分かっています

伊奈忠勝が九歳で夭折して小室藩は廃藩となりましたが、幕府は祖父忠次以来の功績を惜しみ、弟の伊奈忠隆に旧領のうち小室郷千百八十六石余を与えて旗本としました。忠隆はこのとき三歳でした。

その後の当主の名が揃っています。忠隆、宗英、貞長、忠義、忠豊、忠賢、忠孚、忠寛、そして忠昶。九代で明治維新に至りました。幕末の当主は伊奈忠昶です。ただし陣屋の機能は元和以降に江戸屋敷へ移っており、幕末の小室は江戸に住む旗本が治める静かな農村でした。

伊奈町全体を見ると、領主の顔ぶれはさらに細かいものでした。小室郷が旗本伊奈氏、小針村と羽貫村は高力氏から天領、阿部氏を経てまた天領、大針村は旗本木下氏、小針新宿村は旗本荒川氏、小針内宿村は春日氏、羽貫村は布施氏と戸田氏。旗本の知行地が寄り集まった土地です。

そして伊奈忠次という人が、この地名の由来です。信州伊那の出で、家康の関東入りのあとは関東代官頭として大久保長安らとともに関東支配を担いました。利根川東遷と荒川西遷に関わり、桶川の備前堤も、本庄から利根川の水を引く備前渠用水も、忠次の官位「備前守」にちなむ名です。備前渠は慶長九年(1604年)の開削で、総延長は二十キロを超えます。正確な地図のない時代に、夜は提灯を使って土地の高さを測り、水が流れることを確かめたと伝わります。

伊奈氏の屋敷跡は埼玉県の史跡で、昭和九年三月三十一日の指定です。長軸およそ七百五十メートル、短軸三百五十メートルの楕円形の丘陵に、土塁と堀、そして「表門」「裏門」「蔵屋敷」「陣屋」といった地名が残ります。昭和五十七年の発掘では、裏門跡のあたりに戦国期の障子堀が確認されました。

近くの中山道大宮宿は、天保十四年(1843年)に家数三百十九軒、人口千五百八人、本陣一軒に脇本陣九軒—中山道の宿場で最も多い数でした。そして明治元年、十月十七日に明治天皇が氷川神社を武蔵国の鎮守と定め、十月二十八日に行幸して、関東の神社で最初の親祭を行いました。このときの地元の嘆願で、下原の刑場が廃されています。

関東郡代・伊奈家の二百年

小室藩を開いた伊奈忠次の家は、大名としては三代で絶えましたが、忠次の次男・伊奈忠治の家が、関東の幕府領を治める「関東郡代」の職を代々受け継ぎました。忠治は武蔵の赤山(いまの埼玉県川口市)に陣屋を構え、利根川の流れを東へ移して銚子から太平洋へ注がせる「利根川東遷」や、荒川の流路の付け替え、見沼溜井の造成など、父の事業を受け継いで関東の大規模な治水と新田開発を進めました。江戸の町を洪水から守り、関東平野を米どころに変えた土木事業の多くは、この伊奈家の手によるものです。

伊奈家は代々「伊奈流」と呼ばれる治水の技術を伝え、関東の幕府領の年貢や訴訟を取りしきって、旗本でありながら大名をしのぐほどの力をもちました。しかし寛政四年(1792)、当主の伊奈忠尊が家中の騒動などを咎められて改易され、二百年近く続いた関東郡代の伊奈家は終わりを迎えます。赤山陣屋の跡はいまも川口市に残り、埼玉県の史跡に指定されています。

伊奈家と幕末の関東

伊奈家が去ったあと、関東の幕府領は複数の代官が分けて治めるようになり、幕末には関東の村々で治安が乱れて、関東取締出役(八州廻り)が見回るようになりました。伊奈家が築いた堤や用水は、その後も関東の農村を支え続け、幕末の天狗党の乱や戊辰戦争で軍勢が行き交ったのも、この伊奈家が切り開いた平野の上でした。

武蔵小室藩をもっと詳しく

藩祖・伊奈忠次の若いころ

小室藩を開いた伊奈忠次は、天文十九年(1550年)、三河国幡豆郡の小島城(いまの愛知県西尾市小島町)で生まれました。はじめから家康の信頼が厚かったわけではありません。永禄六年(1563年)、父の忠家が三河一向一揆に加わって徳川家を離れたため、伊奈家は一度家康のもとを去っています。

天正三年(1575年)の長篠の戦いで、忠次は正式な家臣ではない立場で陣に加わって手柄を立て、ようやく徳川家に戻ることを許されました。ところがその後、家康の長男・信康が自害した事件をきっかけに再び徳川家を離れ、堺に住んでいたといわれます。

天正十年(1582年)の本能寺の変のとき、家康は堺を見物していて、命からがら伊賀の山を越えて三河へ逃げ帰りました(伊賀越え)。忠次はこの脱出に小栗吉忠らとともに力を尽くしたとされ、これが再び家康に重く用いられるきっかけになりました。

藩の成り立ちと領地

天正十八年(1590年)に家康が関東へ移ると、忠次は武蔵国足立郡の小室と鴻巣(いまの埼玉県北足立郡伊奈町と鴻巣市のあたり)で、領地を与えられました。この藩の石高は、1万3千石とする資料と、1万石とする資料があります。忠次は関東の幕府領を治める代官のまとめ役となり、のちの関東郡代の始まりとされています。

「伊奈流」と土地のはかり方

忠次が行った検地(田畑の広さと収穫を調べること)や新田開発、治水のやり方は「伊奈流」と呼ばれ、のちの幕府の農政の基本になりました。土地をはかるとき、六尺(約一・八メートル)四方を一歩とする方法を使い、これが江戸時代の標準になったといわれます。小さな藩の殿様でしたが、江戸時代の村の年貢のしくみの土台をつくった人物でした。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、1万3千石とした場合、この藩はおよそ310人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「伊奈忠次」、コトバンク「伊奈忠次」、ニッポン旅マガジン「伊奈氏屋敷跡」

場所・アクセス・地図

〒362-0806 埼玉県北足立郡伊奈町小室217-5

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