牛久藩/山口家1万石:山口弘達 戊辰戦争では恭順を示し藩主が上洛した牛久藩

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牛久藩の歩み

牛久藩の藩祖「山口重政」は織田信長の次男「織田信雄」に仕え、その後に「徳川家康」に仕えました。そして慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」における戦功により、上総国五千石、武蔵国五千石の所領を与えられ、合計一万石を領する大名になりました。その後、下野国にも五千石を加増され一万五千石となっています。

牛久藩/場所・アクセス・地図 山口家1万石:山口弘達 戊辰戦争では恭順を示し藩主が上洛した牛久藩【幕末維新写真館】

しかし慶長十八年(1613年)一月八日、重政の嫡子「山口重信」と「大久保忠隣」の養女との婚姻を幕府に届けなかったとして、幕命により改易されました。重信の正室は「石川康通」の娘で、忠隣の養女として嫁いだのだが、これが家康の怒りに触れてしまいました。その後、重政は罪を許されて再び常陸国と遠江国に合わせて一万五千石の所領を与えられました。

第2代藩主「山口弘隆」のときに、ばらばらだった領地を常陸国と下総国に集められ、牛久に新しく陣屋を構えました。これが牛久藩の立藩です。弘隆は弟「山口重恒」に五千石を分与したため牛久藩の石高は 一万石となりました。慶応四年(1868年)二月二十日、牛久藩主「山口弘達」は幼少のために重臣を上洛させて、恭順の姿勢を示しました。戊辰戦争で藩は新政府に与し龍ヶ崎や水海道へ出兵し同年十月五日には上洛します。

明治二年(1869年)の「版籍奉還」で弘達は牛久藩知事となり、明治四年(1871年)七月の「廃藩置県」で牛久藩は廃藩となりました。

三歳の藩主と、牛久城の一角に築かれた陣屋

牛久藩は常陸国、いまの茨城県牛久市に置かれた一万石の藩です。藩主の山口家は大内氏の系統を称した家で、周防国山口の地名を姓としました。

中世の城の上に建てた陣屋

陣屋は寛文九年(1669年)に二代の山口弘隆が築きました。場所は中世の牛久城の一角で、牛久沼に向かって突き出た標高二十メートルほどの台地の上です。面積は一万二千平方メートル余りあり、内部に御殿と長屋、蔵が置かれていました。城を持たない大名の陣屋としては、かなり構えのあるほうです。

跡地は現在、小公園になっています。台地の端の土塁と空堀、中腹の横堀が良好に残り、東の端には南北の堀と土塁、堀を隔てて馬出しのような郭があります。陣屋の内部は耕地となり、井戸の跡がわずかに残るだけです。陣屋の門の一つは市内の民家へ移されて現存すると伝わります。なお牛久城そのものは、岡見氏が十六世紀半ばに築き、元和九年(1623年)に廃城となった城です。

三歳で藩主になった山口弘達

幕末の藩主は山口弘達です。万延元年(1860年)に生まれ、文久二年(1862年)に三歳で家督を継ぎました。つまり元治元年(1864年)の天狗党の乱のころは四、五歳です。牛久が水戸街道の宿場であったため、天狗党が牛久宿の旅籠に逗留したという話も伝わりますが、藩として出兵したり戦ったりした記録は確かめられません。

慶応四年(1868年)二月二十日、藩は重臣を上洛させて恭順を伝え、新政府側として龍ヶ崎や水海道へ兵を出しました。同年十月には藩主自身が上洛しています。明治二年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で免官されました。

弘達は明治十七年(1884年)に子爵を授けられ、明治二十三年(1890年)から大正十四年(1925年)まで貴族院議員を五期務めています。三歳で藩主となった人が、明治・大正を通じて議員を続けたことになります。昭和七年(1932年)に亡くなりました。

藩校は正心館です。設立の年はわかっておらず、文武の稽古場の表御門のわきに置かれていた可能性が指摘されていますが、確実ではありません。廃藩後は牛久県となり、新治県を経て明治八年(1875年)に茨城県へ統合されました。なお得月院にある五輪塔は牛久城主だった由良国繁の母の墓で、山口家の墓ではありません。訪ねるときに混同しやすいところです。

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先祖の戦国武将・山口重政

藩祖の山口重政は、永禄七年(1564年)に山口盛政の長男として尾張で生まれました。山口氏は大内氏の庶流とされる家で、父の盛政は尾張の星崎城主でした。重政ははじめ織田信雄の家臣佐久間正勝に仕え、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田・徳川の連合軍の一員として大野城を守っています。信雄が改易されたあと、徳川秀忠の家臣となって五千石を与えられました。

改易から大名への返り咲き

本文にあるとおり、重政は慶長十八年(1613年)に改易されました。その二年後の慶長二十年(1615年)、大坂夏の陣で重政は井伊直孝の軍に加わり、若江の戦いで奮戦します。しかしこの戦いで、改易のもとになった長男の重信が木村重成に討ち取られ、弟の重克も戦死しました。

この戦功がのちに認められ、重政は寛永五年(1628年)に常陸牛久で一万五千石の大名に返り咲きます。改易から十五年後のことでした。重政は寛永十二年(1635年)九月十九日、七十二歳で亡くなっています。大名の身分を失い、子と弟を戦場で失ってから家を立て直した人が、牛久藩の藩祖です。

本家と分家

二代弘隆が弟の山口重恒に五千石を分けたことで、牛久藩は一万石になりました。五千石は大名とされる一万石に届かないため、重恒は大名にはなっていません。一方の本家も、分けたあとはちょうど一万石で、大名の列にぎりぎり残る石高でした。

領地のようす

牛久藩の領地は牛久の周りだけではありませんでした。牛久市の広報によると、江戸時代、新治郡北部の狢内・大塚・瓦谷など十一か村、あわせて五千石余りが牛久藩の領地になっていました。一万石のうち半分ほどが、牛久から離れた新治郡にあったことになります。陣屋のある牛久は水戸街道(陸前浜街道)の宿場町でもあり、コトバンクは牛久を「牛久藩一万石の城下町で、水戸街道の宿駅として栄えた」町と説明しています。

同じ時代の大きな出来事・牛久助郷一揆

文化元年(1804年)十月、牛久宿の助郷(宿場に人馬を出す負担)が重すぎることから、近隣の五十三か村が参加する騒動が起こりました。牛久助郷一揆です。積金の利息で人馬を雇う案を話し合う集会が打ちこわしに発展し、麻屋治左衛門の家の打ちこわしには百姓千五百人から千六百人が加わったとされます。翌文化二年(1805年)八月の裁許では、勇七が獄門、吉十郎と桂村の兵右衛門が遠島となり、二千六百二人に過料が科されました。

ただし、牛久藩領と土浦藩領からは参加した村がありませんでした。加わったのは関宿藩・仙台藩・谷田部藩の領地と旗本の知行地の村々です。牛久の名を冠した一揆ですが、牛久藩の領民の一揆ではなかったことになります。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万石のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「牛久藩」「山口重政」「牛久助郷一揆」、コトバンク「牛久」、牛久市の広報紙

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