清富藩/宮城家1万3千石:宮城豊嗣 無嗣断絶のため廃藩

【藩名】
清富藩

【説明】
「宮城豊盛」は豊臣秀吉のもとで豊後国日田郡の代官を務めていたが、「関ヶ原の戦い」で西軍についたため改易されます。しかし、養嗣子の頼久が実兄の「山崎家盛」から二方郡内に6000石を分知されて「徳川家康」に仕えたことで再興が許されました。

そして芦屋城跡の東麓に芦屋陣屋が設けられました。頼久の子の「宮城豊嗣」は、寛永4年(1627年)に加増を受けて二方郡全域と気多郡の4ヶ村を合わせて1万3000石となり大名に列しました。政庁は清富の観音山(相応峰寺城跡)南麓に新たに清富陣屋を設けて移転しました。

清富藩は定府大名であった可能性があり、藩主は江戸にあり清富に駐在した家臣が実際の支配を行ったと思われます。検地の実施や岸田川の改修、清富村の城下町としての整備などを行ったが、寛永20年(1643年)に豊嗣は跡継ぎのいないまま病死し、清富藩は無嗣断絶となりわずか16年間で改易となった、所領は収公され天領となりました。

目次

清富陣屋はどこにあったのか

清富藩の陣屋は、兵庫県美方郡新温泉町清富に置かれました。宮城頼久が寛永四年(1627年)に加増され、二方郡の全域と気多郡の四か村をあわせた一万三千石で大名に列し、それまでの芦屋から清富へ陣屋を移したのが始まりです。

場所は観音山の南麓、天台宗の相応峰寺の里坊から五十メートルほどの位置にあたり、周囲には碁盤目状の町割が整えられました。いまも陣屋を囲んだ石垣と池が残り、参道筋の少し南に「清富陣屋跡」の石碑が建っています。

宮城豊嗣が跡継ぎのないまま没して藩が絶えた年については、寛永二十年(1643年)とする説と承応二年(1653年)とする説があり、資料によって分かれます。改易ののち、清富をふくむ二方郡は幕府領となりました。

幕末の二方郡は誰の支配下にあったか

但馬国二方郡の幕府領は、生野代官所ではなく丹後に近い久美浜代官所の管轄でした。新温泉町がまとめた町史の年表によれば、江戸前期から中期にかけて領主の交代が繰り返されたのち、町域はおおむね半分ずつが豊岡藩領と久美浜代官所の支配下に置かれたとされています。清富村そのものがどちらに属したかは、村ごとの記録にあたる必要があります。

生野の変——但馬を揺らした十日間

幕末の但馬で最大の事件は、文久三年(1863年)十月の生野の変でした。生野銀山は関ヶ原の戦いののちに徳川家康が直轄地とした幕府の財源で、享保元年(1716年)からは生野代官が置かれています。

十月二日に三十七人が三田尻を発ち、八日に播磨へ上陸、十一日に延応寺へ本陣を置きます。天誅組がすでに壊滅していたことは伝わっていましたが、河上弥市らの強硬論に押されて挙兵は決行されました。十二日未明、一行は生野代官所を無抵抗のまま接収します。代官の川上猪太郎が出張中だったためでした。沢宣嘉の告諭文が出され、農民およそ二千人が集まります。

しかし翌十三日には出石藩兵九百人、姫路藩兵千人が生野へ向かい、豊岡藩も動きます。同じ夜、総帥の沢宣嘉は本陣を脱して長州へ逃れました。十四日、騙されたと怒った農民に「偽浪士」として襲われ、河上弥市ら十三人が山口村の妙見山麓で自刃します。平野国臣は鳥取へ向かう途中で捕らえられ、京の六角獄舎に送られて、元治元年七月の禁門の変のさなかに殺されました。

山陰道鎮撫使が通った湯村温泉

慶応四年(1868年)、新政府は西園寺公望を総督とする山陰道鎮撫使を西へ向かわせます。一行は一月二十七日から二十八日に豊岡、二十九日から二月一日までは洪水で村岡に足止めされ、二月三日に春気峠を越えて湯村温泉に入りました。翌四日には蒲生峠を越えて因幡の岩井温泉へ、五日には鳥取藩の城下に入っています。清富から遠くない湯の町を、十八歳の総督が率いる行列が通り抜けていったことになります。

【場所・アクセス・地図】

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