【藩名】
丹波亀山藩
【説明】
慶長14年(1609年)、徳川氏譜代の家臣である「岡部長盛」が下総山崎藩から移封され丹波亀山藩が再度立藩されました。長盛が亀山藩に入ったのは、大坂城の「豊臣秀頼」への抑えの役割もありました。岡部時代に亀山城下町の原型が出来上がったとされ、慶長15年(1610年)、徳川幕府は西国大名を総動員して亀山城の築城を行いました。

江戸期を通じて多くの大名が入れ替わり立ち替わり城主を務めたが、寛延2年(1749年)、青山氏と入れ替わりで形原松平家の「松平信岑」が亀山藩主となるり、亀山藩主家として定着しました。
慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では新政府の山陰鎮撫使に降伏し、その後は東征に参加しています。明治2年6月19日(1869年7月27日)、伊勢亀山藩との混合を避けるため「亀岡藩」と改称します。明治4年7月14日(1871年8月29日)の「廃藩置県」により亀岡県となり、同年11月に京都府に合併されました。
明智光秀の城下・丹波亀山藩
丹波亀山藩は、丹波国(現在の京都府亀岡市)に置かれた藩で、藩主は譜代の松平家でした。居城の亀山城は、かつて明智光秀が丹波攻略の拠点として築いた城として知られ、京都の西を守る要地を治めた藩です。
山陰鎮撫使への降伏
戊辰戦争において丹波亀山藩は、京都から山陰方面へと進む新政府軍(山陰鎮撫使)に降伏し、以後は新政府軍に従いました。京都に近い譜代大名として、進軍してくる新政府軍を前に現実的な選択をしたのです。京の西方を押さえる要衝がたどった、幕末の身の処し方を示しています。
丹波亀山藩をもっと深く——光秀の城と、二度壊された石垣
本能寺へは、この城から出た
亀山城を築いたのは明智光秀です。丹波攻略の拠点としてこの地に城を構え、天正十年、光秀はここから軍を発して老ノ坂を越え、本能寺へ向かいました。歴史を変えた行軍の出発点が、この城下でした。
江戸に入ると、幕府は西国大名を総動員してこの城を大改修します。京都の西の関門を、幕府自身の手で固め直したわけです。以後、譜代大名が次々に入れ替わり、寛延二年(1749年)に形原松平家が入って幕末まで続きました。
「亀山」が二つあるという不便
江戸時代には、亀山藩が二つありました。東海道の伊勢亀山藩と、山陰道のこちらです。書状も人の噂も紛らわしく、実務上たびたび混乱を招きました。
明治二年、丹波側は「亀岡藩」と改称します。理由は記録に明記されている——伊勢亀山藩との混同を避けるため。現在の京都府亀岡市の名は、この改称に由来します。取り違えの多さが、そのまま地名を変えてしまった珍しい例です。
京都にいちばん近い譜代が、戦わなかった
鳥羽・伏見の砲声は、山を一つ越えれば聞こえる距離にありました。譜代大名として京都の西を押さえるこの藩には、態度を決める時間がほとんどなかったことになります。
山陰道へ進む新政府軍が丹波へ入ると、亀山藩は降伏し、以後は東征軍に従いました。同じ「亀山」でも、伊勢の亀山を治めた板倉家からは幕府最後の老中首座が出ています。名前の似た二つの藩が、幕末には正反対の位置に立っていました。
明治に壊され、大正に積み直され、昭和にまた壊された
廃城令で亀山城の建物は失われ、石垣も崩されました。ここまでは全国の城と同じです。この城が変わっているのは、その先でした。
大正時代、宗教団体の大本が荒れ果てた城跡を買い取り、信者の手で石垣を積み直して聖地として整えました。壊された城が、まったく別の理由でよみがえったのです。
ところが昭和十年、当局による弾圧事件が起こると、施設は徹底的に破壊されました。このとき建物だけでなく、積み直されたばかりの石垣までがダイナマイトで崩されています。城が二度、それぞれ違う時代の事情で壊されたことになります。
戦後、石垣はもう一度積み直されました。いま城跡は大本の敷地内にあり、受付を通せば見学できります。明智光秀が積んだ石が、四百年のあいだに二度崩され、二度戻された場所です。
【場所・アクセス・地図】

