小泉藩の歩み
小泉藩を開いたのは、片桐貞隆です。兄は「賤ヶ岳の七本槍」の一人として知られる片桐且元でした。貞隆も兄とともに豊臣秀吉に仕え、小田原征伐や文禄の役で手柄を立てて、播磨で一万石を与えられています。秀吉の死後は、秀頼の傅役となった兄とともに豊臣家を支えました。関ヶ原の戦いののち、家康によって領地を大和の小泉一万石に移され、ここに小泉藩が始まります。
五代藩主の片桐貞音は、落ち度を咎められて幕府から罰を受けました。一方、八代藩主の片桐貞信は遜斎と号した茶人で、茶道の石州流を立て直した人物として知られます。幕末が近づくと藩主の若死にが続き、十一代の片桐貞利からは養子を迎えるようになりましたが、その養子たちも早くに亡くなっています。
最後の藩主は片桐貞篤です。貞篤は水戸松平家の出身で、はじめは幕府の側に立ち、天誅組の変の鎮圧にも加わりました。しかし慶応四年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に協力し、京都の守りに就いています。明治二年(1869年)の版籍奉還で小泉藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で職を解かれ、小泉藩はなくなりました。
将軍に茶を教えた藩主がいました
信濃の片切氏から、浅井家臣へ
片桐氏は清和源氏満快流を称し、信濃国伊那郡片桐、いまの長野県上伊那郡中川村に興った片切氏の分家とされます。大和郡山市も、平安時代後期に都から赴任した源為基がこの地に館を建てて土着したのが始まりで、発祥地は中川村だと説明しています。のちに近江へ移って「片桐」と改め、片桐直貞の代には北近江の浅井氏に仕えました。その子が賤ヶ岳の七本槍で知られる且元と、弟の貞隆です。小泉藩を開いたのは弟の貞隆のほうでした。
石見守だから「石州」です
この藩の名を後世に残したのは二代の片桐貞昌、すなわち片桐石州です。寛永元年(1624年)に従五位下石見守に任じられ、その官名から石州と呼ばれました。石州流茶道の開祖であり、茶道六宗匠の一人に数えられます。母方の曽祖父は堺の茶人今井宗久でした。そして寛文五年(1665年)、四代将軍徳川家綱の茶道指南役となり、将軍家が所蔵する茶道具の鑑定にもあたっています。一万石余の小藩の当主が、将軍に茶を教えていたわけです。政務の面では治水や土木に功績があったと伝えられます。
父の菩提寺が、国の名勝になりました
寛文三年(1663年)、石州は父貞隆の菩提を弔うため慈光院を建てました。開山は大徳寺百八十五世の玉舟宗璠、臨済宗大徳寺派で山号は円通山です。その書院と茶室は昭和十九年(1944年)九月五日に国の重要文化財となりました。書院は一重入母屋造の茅葺、茶室は二畳台目に二畳の次の間を添えた切妻造こけら葺です。庭園のほうはさらに早く、昭和九年(1934年)十二月二十八日に国の名勝および史跡という二重の指定を受けています。奈良盆地を借景にした枯山水で、大和三名園の一つに数えられます。藩そのものの遺構には文化財指定がありませんから、小泉藩が残したものは城ではなく庭と茶室だったことになります。
幕末の藩主と、裏の取れない一行
最後の藩主片桐貞篤は天保十二年(1841年)の生まれです。実父は常陸府中藩主松平頼縄の弟にあたる松平頼功で、八代貞信の娘の入婿として文久二年(1862年)に家督を継ぎました。従五位下主膳正。この人については「天誅組の変の鎮圧で功を挙げた」と紹介されることがありますが、奈良県や五條市の公式資料に小泉藩の名は出てきません。天誅組に対応した藩として記録されているのは高取・彦根・津・紀州・郡山です。戊辰戦争では新政府側につき、京都の守備にあたったと伝えられますが、出兵の日付や規模は分かっていません。
子爵を受けたのは、最後の藩主ではありませんでした
貞篤は明治二年(1869年)六月二十三日に小泉藩知事となり、明治四年(1871年)七月十五日の廃藩置県で免官されました。小泉県を経て奈良県に編入されます。そして明治十六年(1883年)六月二十六日に四十三歳で没しました。華族令が施行されたのは翌明治十七年(1884年)ですから、同年七月八日に子爵を受けたのは貞篤本人ではなく、後嗣の貞健です。最後の藩主は華族になる前に世を去っていたということになります。石州の墓は京都の大徳寺高林院にあります。
堀の名は、いまも池に残っています
小泉陣屋の跡は富雄川の東、台地の先端にあります。高台の一角が広場として整備され、高林庵の建物は陣屋の一部だと伝えられます。薙刀池は堀の名残です。周辺にはいまも城下町のたたずまいが残っています。
兄・且元の家は絶え、弟の家だけが残った—小泉の片桐家
兄より気性の激しかった藩祖・片桐貞隆
小泉藩を開いた片桐貞隆は、豊臣家の家老として知られる片桐且元の弟です。二十一歳で兄とともに秀吉に仕え、小田原征伐や朝鮮出兵に加わって一万石余りまで取り立てられました。兄よりずっと気性が激しかったと伝わります。慶長十九年(1614年)、方広寺の鐘銘事件で家康との内通を疑われると、兄とともに大坂城を出て茨木城へ移りました。このとき完全武装の家臣三百人を連れていたといいます。
本家の竜田藩が絶え、片桐家の大名は小泉だけに
兄・且元の竜田藩は最大四万石まで大きくなりましたが、二代孝利が亡くなると一万石に減らされ、承応四年(1655年)に四代為次が十五歳で亡くなって大名家としては絶えました。旗本として残された家にも小泉藩から養子が入りましたが、その養子も元禄七年(1694年)に十七歳で亡くなり、且元の血筋はとだえています。こうして、片桐家で大名として残ったのは弟の家・小泉藩だけになりました。家格は外様です。
富雄川沿いの環濠集落に置かれた陣屋
小泉の陣屋が置かれた小泉村は、富雄川沿いに堀をめぐらせた環濠集落でした。慶長のころの村高は約千五百九十石で、慶長六年(1601年)に片桐家の領地になってから廃藩置県まで、陣屋が置かれ続けました。
最後の藩主は水戸家の流れ
最後の藩主・片桐貞篤は天保十二年(1841年)の生まれで、父は松平頼功、兄は常陸府中藩主の松平頼縄です。水戸徳川家から分かれた府中松平家の出で、八代藩主・貞信の娘の婿として片桐家を継ぎました。鳥羽・伏見の戦いのあと新政府に従い、明治十六年(1883年)に亡くなっています。
家は続かなくても、文化は残る
豊臣家を支えようとして板ばさみになった兄の家が絶え、気性の激しい弟の家が幕末まで残る。小泉藩の歴史は、名の知られた人物の家ほど長続きするとは限らないことを教えてくれます。その一方で、片桐石州の茶の湯という文化は、兄弟のどちらの家の名よりも長く残りました。武家の家は続かなくても、文化は残る。小泉の陣屋跡を歩くなら、慈光院とあわせて訪ねたいところです。



