美濃高松藩<松ノ木藩>の歩み
美濃高松城にははじめ、吉村信実・吉村氏吉が入封していました。吉村親子は「織田信長」に仕えたが、信長没後はその次男である「織田信雄」に仕えました。しかし信雄が改易されると吉村親子は「徳川家康」に従い関東に移りました。
代わって高松には「豊臣秀吉」の家臣「徳永寿昌」が二万石で入封します。寿昌は後に三万石に加増されました。慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で、寿昌は東軍に与して西軍の「池田秀氏」らを攻めるなどの戦功を挙げました。この功績を認められて同年十一月、五万六百石に加増の上で美濃高須藩に移されたため美濃高松藩は廃藩となり、同時に美濃高松城も破却されました。
廃藩のあと—ここから出た兄弟が、幕末を敵味方に分けました
まず場所です。美濃高松は岐阜県海津市海津町松木にあたります。ただし松ノ木城がどこにあったかは、いまも確定していません。地元には「御霊神社(五霊神社とも書かれます)のあたり」という言い伝えが残るだけです。
徳永寿昌が関ヶ原の戦功で慶長五年(1600年)に五万六百石へ加増されて高須へ移り、この藩は廃されて城も壊されました。江戸が開かれる前に消えた藩です。
幕末のこの一帯は、高須藩・尾張藩・幕府領が入り組んでいました。松木村がどれに属したかはわかっていませんが、海西郡なので高須藩領だった可能性が高いと思われます。
そしてこの高須藩が、幕末最大のねじれを生みます。藩主・松平義建の子たちが、それぞれ別の家を継いだのです。次男の徳川慶勝は尾張藩主、六男の松平容保は会津藩主、八男の松平定敬は桑名藩主。いわゆる高須四兄弟です。新政府側と旧幕府側に、実の兄弟が分かれて向き合うことになりました。
この土地のもうひとつの記憶は治水です。木曽三川が集まる輪中地帯で、宝暦四年(1754年)から薩摩藩が分流工事を担いました。宝暦治水です。総奉行の平田靱負は工事の完成直後に世を去りました。工事の完成後に薩摩藩士が植えた松並木が、千本松原として国の史跡になっています。明治になってからはオランダ人技師デ・レーケの指導で近代改修が行われ、彼の指導で築かれた羽根谷の砂防堰堤はいまも機能しています。
松ノ木城跡に明確な遺構は残りませんが、初代藩主・徳永寿昌の墓碑は海津市の史跡になっています。ほかに治水神社、宝暦治水碑、高須藩主の歴代墓、木曽三川輪中ミュージアムがあります。
徳永寿昌の家のその後—大坂城の石垣でつまずく
高松から高須へ移った徳永寿昌は、もとは豊臣秀吉の甥・秀次に仕え、のちに秀吉の直臣となった武将です。関ヶ原の戦いでは東軍につき、美濃の西軍方の城を攻める先鋒として働きました。高須の五万石余(五万六百石とも、五万六千石ともされます)は、その働きへの恩賞でした。
しかし徳永家の大名としての時代は長く続きませんでした。寿昌の跡を継いだ昌重は、寛永五年(1628)、幕府から命じられた大坂城の石垣の普請が遅れたことなどを咎められて改易されます。大坂の陣のあと、幕府は西国の大名たちに大坂城の再建を割り当てていました。関ヶ原で徳川のために戦った家が、徳川の大坂城づくりでつまずいたことになります。
高須の地を継いだ尾張徳川家の分家
徳永家が去った高須には、その後いくつかの大名が入り、元禄十三年(1700)、尾張藩二代藩主・徳川光友の次男・松平義行が入って、尾張徳川家の分家である高須藩が始まりました。この家は、本家の尾張藩に跡継ぎがいないときに藩主を出す役目を負っていました。
幕末、この高須松平家の十代・義建の息子たちが、次男の徳川慶勝(尾張藩主)、五男の茂栄(茂徳、尾張藩主ののち一橋家当主)、六男の松平容保(会津藩主)、八男の松平定敬(桑名藩主)と、それぞれ別の家を継ぎました。いわゆる高須四兄弟です。尾張に跡継ぎを出すための分家が、幕末には幕府と新政府の双方の中心に兄弟を送り出していたのでした。
朝鮮から全軍を引き揚げさせた使者—徳永寿昌
柴田家の家臣から秀吉方へ
美濃高松藩(松ノ木藩)の徳永寿昌は、天文十八年(1549年)に近江の徳永村で生まれました。はじめは柴田勝豊に仕え、勝豊が長浜城を秀吉に明け渡したことで羽柴方になります。豊臣秀次が処刑される前、秀次の妻子は寿昌の京都屋敷に移されたと『太閤記』は伝えています。家格は外様です。
海を渡った撤兵の使者
慶長三年(1598年)、秀吉が亡くなると、寿昌は家康と前田利家の命を受け、宮城豊盛とともに朝鮮へ渡りました。明との講和をまとめ、朝鮮にいた日本の全軍を引き揚げさせる大役です。帰国後、秀吉の形見として名刀・吉光を受け取りました。(宮城豊盛については清富藩のページもご覧ください。)
関ヶ原—人質と弾薬と高須城
関ヶ原の戦いで、寿昌は東軍につきました。次男を池田輝政のもとへ人質に出し、三男には大津城で籠城する京極高次へ鉄砲の弾薬を三度届けさせています。八月十九日には、西軍の高木盛兼が守る高須城を落としました。その功で高須藩に移りましたが、子の昌重の代に改易され、昌重は出羽庄内、のち新庄に預けられて生涯を終えました。昌重は大坂夏の陣の道明寺で多くの首をあげた武将でもありました。
戦を終わらせた男の家
寿昌の一番の仕事は、勝つことではなく、終わらせることでした。海を渡って全軍を引き揚げさせた使者の家が、わずか二代で消えていく。大きな仕事をした家が長く続くとは限らない、という戦国の終わりの厳しさを感じます。



