苗木藩の歩み
苗木藩の藩祖は「遠山友政」です。友政は美濃の豪族で、父の友忠とともに「織田信長」に従っていたが、信長の死後は小牧長久手の戦いなどで「徳川家康」に与したため豊臣秀吉から所領を没収され、苗木は「河尻秀長」の所領となりました。慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で秀長は西軍(石田三成)に与したため所領を没収され、代わって東軍に与して武功を挙げた「遠山友政」に一万五百石が与えられて旧領復帰が許されました。

三代藩主の遠山友貞は新田の開発に力を入れ、四千二百八十六石の新田を開きました。しかしその後も、五代・遠山友由の大坂加番、六代・遠山友将の駿府加番と、幕府の勤めによる出費が重なります。七代・遠山友央の家督相続の際には五百石を幕府に返すことにもなり、苗木藩の財政は苦しいままでした。
最後の藩主第12代「遠山友禄」は文久元年(1861年)と元治元年(1864年)の2度にわたって若年寄となりました。慶応元年(1865年)には大坂警備の任に就き、第二次長州征伐にも参加したことで出費が重なり藩財政は火の車となり財政は破綻しました。慶応四年(1868年)正月の鳥羽・伏見の戦いのあと、幕府に帰国願いを出し、二月に苗木城へ戻りました。そして、東山道鎮撫岩倉総督の元へ向かい恭順の意を伝えました。この後、苗木藩は信濃に出兵しています。
戊辰戦争では新政府軍に恭順したことで事なきを得た苗木藩は、明治四年(1871年)の「廃藩置県」によって苗木県となり、その後は岐阜県に編入されました。
徹底した廃仏毀釈と養子友悌
友禄は明治三年(1870年)に自ら臨済宗から神道に改宗して平田派国学に入門し、国学者・青山景通・直通父子を登用して藩内で徹底した廃仏毀釈を断行しました。苗木藩ではすべての寺院が取り壊され、全国でも類を見ない徹底ぶりで知られています。跡継ぎには織田長易の四男を養子に迎えて友悌と名乗らせ、友禄自身は明治二十七年(1894年)に76歳で没しました。
苗木城を実際に歩いた様子は、【現地取材】苗木城を歩くにまとめています。
若年寄から勤王へ—そして寺が消えた藩
苗木藩は一万石余の小藩ですが、幕末から明治初年にかけて二つの点で際立っています。藩主が幕府の要職にありながら早々に勤王へ転じたこと、そして廃仏毀釈を全国でも例のないほど徹底して行ったことです。
幕府の若年寄だった藩主
遠山友禄は文政二年(1819年)に苗木城で生まれ、天保十年(1839年)に家督を継ぎました。安政年間の末に奏者番となり、文久元年(1861年)に若年寄、元治元年(1864年)にも再び若年寄を務めています。慶応元年(1865年)には大坂の警備と第二次長州征討に加わりました。小藩の当主としては異例に幕府の中枢に近い位置にいた人です。
その友禄が、慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いのあと、国元の家臣たちの説得を受けて帰国願を出し、二月に苗木城へ戻ります。そして二月二十一日、美濃の美江寺の本陣で東山道鎮撫の総督に勤王の意を申し上げました。以後は官軍として信濃へ出兵しています。幕府の若年寄を務めた人物が、わずか一か月半で新政府の側に立ったことになります。
藩の財政は早くから厳しく、手伝い普請や軍役の負担が重なり、天保年間には家臣の給米を全額借り上げる事態になっていました。幕末には十四万両を超える借金を抱え、元治年間には金札を発行したと伝わります。一万石余の藩が幕府の役を務めることの重さが、ここに表れています。
十五の寺がすべて消えた
明治三年(1870年)、苗木藩は領内の寺院・仏像・仏具・経典を、個人の位牌まで含めて処分するという政策を実行しました。中津川市は、藩内の十五の寺院がすべて取り壊され、全国的に見ても類を見ないほど徹底して行われたと説明しています。ほとんどの藩民が神道に改め、寺に代わって神社が整えられました。
主導したのは、平田派の国学者であり藩の大参事という最高位にあった青山直道です。父の青山景通はこの地方で最初の平田派門人となり、明治元年に新政府の神祇官に登用されました。藩主の友禄自身も明治三年に禅宗から神道へ宗旨を替えており、藩をあげての転換だったことがわかります。隣の付知村は尾張藩の領地だったため同じことは起きておらず、領主の判断一つで寺が残るか消えるかが分かれました。
巨岩の上の城
苗木城跡は昭和五十六年(1981年)に国の史跡に指定されています。標高四百メートルを超える城山に築かれ、天然の巨岩を利用し、岩の上や岩を囲むように石垣を積んだ独特の姿で知られます。建物は明治四年(1871年)二月に解体され売却されました。このとき天守を買い取った家臣の回顧が残っており、絶頂の巨岩の上という場所ゆえに取り壊しが難しく、徒刑囚を数十人借り受けて数十日を費やし、購入代金の数倍がかかって「失敗中の失敗」だったと記しています。城門の一つは苗木遠山史料館に保存されています。
友禄は明治七年(1874年)に隠居し、明治二十七年(1894年)に東京で亡くなりました。明治十七年(1884年)の子爵については、友禄が授けられたとする資料と、養子の遠山友悌が授けられたとする資料があり、一致していません。廃藩後は苗木県となり、同じ年のうちに岐阜県へ編入されました。美濃には岩村藩や大垣藩が並び、それぞれ違う道を選んでいます。
苗木藩をもっと詳しく
藩の成り立ち:城を失い、取り戻した遠山家
藩祖の遠山友政は、もとは飯羽間遠山氏の出身です。苗木遠山氏の遠山直廉が亡くなって跡継ぎが絶えると、織田信長の命で友政の祖父・友勝が苗木遠山氏を継ぎ、その後は飯羽間城主だった父の友忠が継ぎました。天正11年(1583年)、友忠は東美濃の覇権をめぐって森長可と争い、降伏の誘いを蹴って戦いましたが敗れ、苗木城を奪われます。友忠と友政は家臣を連れて徳川家康を頼り、三河の田峰城主・菅沼定利の配下に入りました。
天正18年(1590年)に徳川家が関東へ移ると、友政は榊原康政(井伊直政とする説もあります)に属して上野国館林へ移ります。慶長5年(1600年)、苗木城主となっていた河尻秀長が関ヶ原の戦いで西軍に付いたのに対し、友政は東軍として東濃で戦って苗木城を奪い返し、1万500石を与えられて苗木藩が成立しました。友政はその後、大坂冬の陣で桑名城を守り、夏の陣では松平忠明に属して戦っています。
領地のようす
版籍奉還の時点の領地は、美濃国恵那郡の日比野村・坂下村・福岡村・蛭川村など13村と、加茂郡の飯地村・黒川村・神土村・越原村などの村々でした。年貢米は黒瀬街道を通って加茂郡の黒瀬湊(今の八百津町)まで陸路で運び、そこから水運で伊勢国の桑名へ送っていました。城下近くの上地村には木曽川の渡し船があり、元和年間に藩が人船と馬船の二艘を用意して、船頭6人に扶持を与えています。
付知村・川上村・加子母村の三か村は「裏木曽」と呼ばれる良材の産地で、幕府が苗木遠山氏から取り上げて直轄地とし、苗木藩に預けていましたが、元和元年(1615年)に尾張藩領へ移されました。
本家と分家・五百石の返上
享保7年(1722年)、5代藩主・遠山友由の遺言で、弟の友央が美濃国加茂郡で500石を分けられ、旗本となりました。ところが享保17年(1732年)、6代藩主で甥の友将が亡くなり、友央が末期養子として藩主を継ぐことになります。このとき分知されていた500石を幕府に返上したため、表高は1万21石となりました。この返上は藩にとって大きな痛手で、幕府への対応がまずかったとして江戸家老の大脇権右衛門が失脚しています。
藩の終わり
明治維新の後、藩の借金は14万3000両と藩札1万5900両にのぼりました。藩は苗木城の建材や武具の売却、藩士全員の帰農と家禄奉還、知藩事・遠山友禄の家禄全額を窮民救済と藩の経費にあてることなどで、明治4年(1871年)8月には5万2600両と藩札5000両まで減らします。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で苗木県となると、そのすぐ後の8月17日、大参事の青山直道と石原定安は、小さな県に役所を置いても費用がかさむばかりで国の利益にならないとして、自らの免職と苗木県の廃止を願い出ました。全国に先がけた廃県の願い出として注目されています。苗木県は同年11月20日に岐阜県へ編入されて消えました。しかし、他藩より早く家禄を奉還して平民となっていた旧藩士たちは、旧士族として認められず、約束されていた補償も受けられない事態に陥ります。生活は年々苦しくなり、改革や廃仏毀釈を主導した青山への恨みが集まりました。明治9年(1876年)には旧藩士4人が青山の屋敷に放火する事件も起きています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、1万500石(立藩時の石高)のこの藩はおよそ二百五十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「苗木藩」
場所・アクセス・地図
苗木の現地を歩いた記録
苗木藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。



