吉江藩/松平家2万5千石:松平昌明 昌明が福井藩本家を継ぐことで廃藩

吉江藩 松平家2万5千石 最後の藩主 松平昌明
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吉江藩の歩み

正保二年(1645年)、結城秀康の子で第3代福井藩主の「松平忠昌」が死去し「松平光通」が跡を継ぎました。このとき、光通は異母兄の「松平昌勝」に松岡藩五万石を分与し、同じく異母弟の「松平昌明」(のちの昌親)に吉江藩二万五千石を分与しました。

延宝二年(1674年)に福井藩主であった兄「松平光通」が死去すると、その遺言により昌明が本藩の家督を継いで福井藩主となり、昌親と改名しました。これにより吉江藩領は福井本藩に吸収され吉江藩は廃藩となりました。

廃藩のあと—幕末の吉江

吉江は越前国、いまの福井県鯖江市吉江町です。松平昌明が福井本藩を継いだことで藩領は福井藩に吸収されました。幕末に吉江村が福井藩領だったのか、享保五年(1720年)に成立した鯖江藩の領域に入っていたのかは、わかっていません。福井藩領のままだった可能性が高いと思いますが、断定は避けます。

この三十年足らずで終わった藩には、意外な置き土産があります。近松門左衛門です。父の杉森信義が吉江藩士で、近松は吉江の城下で少年期を過ごしました。鯖江市はこの一帯を「近松の里」として整備し、文学碑と像を建てています。三十年足らずで消えた藩が、日本の演劇史でいちばん大きな名前を残したことになります。

隣の鯖江藩は幕末史の中心にいました。七代藩主間部詮勝は、安政五年(1858年)に大老・井伊直弼の指名で老中に再登用され、孝明天皇への条約調印の説明と、尊王攘夷派の粛清—安政の大獄の実行を担いました。鯖江の西山公園は、その詮勝が領民のために造成した「嚮陽渓」が前身です。

吉江には、陣屋の表門を移したとされる西光寺の表門が唯一の遺構として残り、藩館跡の碑、昌親が城下整備で取り入れた「七曲り」の道筋、藩のお泉水だった榎お清水などがあります。

越前の戊辰—福井藩は初め旧幕府方だった

吉江藩の領地は福井藩に吸収されました。では幕末の福井藩はどう動いたのか。教科書的には「越前は早くから新政府側」という印象がありますが、福井県史は、福井藩が戊辰戦争の当初は旧幕府側に加担していたと明記しています。

誓約の請書を出させられた藩

慶応四年(1868年)一月十五日、若越の七藩へ帰順を促す勅書が出されました。鎮撫使は一月二十五日に小浜へ入り、二月十五日に福井へ到着して西本願寺の掛所に入ります。福井藩は朝命に服するという三件の誓約の請書を提出させられ、あわせて越前国内の代官支配地の取り締まりを命じられました。三十二万石の大藩が、疑われる側から取り締まる側へ回された格好です。

出兵は越後口でした。五月二十二日に命令が下り、六月二十四日から二十六日にかけて出動、初めに千二百人、最終的に二千三十四人を送り、戦死十人・負傷三十二人を出して十一月に帰還しています。小浜藩は総勢三百四十八人。丸岡藩など若越のその他の諸藩は直接の出兵を命じられず、京都の警衛と敦賀湾の警備にあたりました。明治元年(1868年)十一月には丸岡・鯖江・勝山の三藩が敦賀港の警備を担っています。吉江のあたりは戦場にはなりませんでしたが、藩の態度が問われ続けた土地でした。

「越前藩」と呼ばれていた時期

細かい話ですが、福井県文書館によれば「福井藩」という呼び名が公称になったのは明治二年(1869年)六月の版籍奉還のあとで、慶応四年二月の公文書ではまだ「越前藩」が使われていました。私たちが当たり前に使っている藩名が、幕末の当時はまだ固まっていなかったということです。

福井県が一度消えている

廃藩置県のあと、明治四年十一月に敦賀県と福井県が置かれ、十二月には福井県が足羽県と改称されました。明治六年(1873年)には足羽県が敦賀県に合併されます。理由として、手続きが複雑だったことと、足羽県の職員が旧福井藩士で占められていたことが挙げられています。さらに明治九年(1876年)には嶺南が滋賀県、嶺北が石川県に組み込まれ、福井県はいったん地図から消えました。現在の福井県が新しく置かれたのは明治十四年(1881年)二月七日です。吉江のある鯖江の一帯も、この間に何度も所属の県が変わりました。大野藩のような同じ越前の藩の記事とあわせて読むと、県の輪郭が定まるまでの十年の混乱が見えてきます。

二度福井藩主になった殿様の最初の領地—吉江藩の松平昌明

五歳の藩主

吉江藩主・松平昌明(のちの昌親)は、寛永十七年(1640年)生まれの福井藩主・松平忠昌の五男です。正保二年(1645年)、五、六歳で二万五千石を分けられて吉江藩主となりました。吉江に陣屋を置く許可が出たのは慶安元年(1648年)、藩主が初めて入ったのは明暦元年(1655年)です。陣屋(吉江館)は東西約百メートル、南北約百二十メートルと推定されています。家格は親藩です。

兄の自殺と家中の分裂

延宝二年(1674年)、福井藩主だった兄・光通が自殺しました。光通の庶子・直堅を推す派と、兄の昌勝(越前松岡藩)を推す派などで家中が割れ、家老が光通の遺書を幕府に出して、昌明の相続が認められました。吉江藩はこうして本家に吸収されます。昌明はわずか二年で、昌勝の子・綱昌に家督を譲りました。

二度目の藩主と貞享の半知

ところが綱昌は奇行で強制的に隠居させられ、貞享三年(1686年)、昌親が福井藩主に復帰しました。福井藩主を二度務めた珍しい人物です。このとき福井藩は二十五万石に半減され(貞享の半知)、江戸城の席も大廊下から大広間へ下がりました。昌親は二千人以上の家臣を減らし、俸禄も半分にしています。のちに将軍綱吉の一字をもらって「吉品」と改名し、越前和紙を藩の専売にして、町の名も「福居」から「福井」に改めました。

吉江に残るもの

廃藩後、吉江一帯は藩主ゆかりの地として税を免除されたと伝わり、昌親を祀る吉江神社もあります。昌親が祈願所にした天満神社は「御館天満宮」と呼ばれ、藩館跡のそばの浅水川には赤い弁天橋が架かります。町には近松会館もあり、近松門左衛門ゆかりの地として知られています。福井の名を定めた殿様の出発点が、この小さな町でした。

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