【藩名】
八幡山藩
【説明】
豊臣秀吉の北条征伐後に「徳川家康」が関東に入封し、江戸城に本拠を構えると、「松平家清」に児玉郡八幡山1万石を与え、八幡山藩を立藩させました。藩政は父「松平清宗」が専任し、家清は天正19年(1591年)、九戸一揆(九戸政実の乱)の鎮圧や「関ヶ原の戦い」に従軍し、尾張国清洲城の城番を担当しました。
その後、家清は慶長6年(1601年)に3万石の加増を得て、三河国吉田に転封となり、八幡山藩は江戸時代をむかえる前に廃藩となりました。
【廃藩のあと——幕末の八幡山】
まず場所を正しておきます。松平家清の八幡山は近江ではなく、武蔵国児玉郡八幡山、いまの埼玉県本庄市児玉町八幡山です。城は雉岡城といい、松平氏が城主になってから八幡山城と改称されました。当サイトはこれまで地図を近江八幡山城に設定していました。お詫びして訂正します。
慶長六年(1601年)に家清が三河吉田へ移ったあと、この地には幕末まで一度も大名が入りませんでした。明治初年の記録では、児玉郡の二町五十八村のうち旗本領が二町三十八村を占め、幕府領はわずか一宿一村。八幡山町も旗本領です。
代わりにこの地を栄えさせたのは絹でした。安政六年(1859年)の横浜開港で生糸と蚕種の輸出が始まると、児玉一帯は養蚕地帯として急成長します。中山道の本庄宿は宿場としては中山道最大の規模で、絹の集散地として賑わいました。
この地はもう一人、忘れられない人物を出しています。延享三年(1746年)に児玉郡保木野村で生まれた塙保己一です。七歳で失明しながら『群書類従』を編んだ国学者で、生家と記念館が残ります。
雉岡城跡は本丸・二の丸が児玉中学校、三の丸が児玉高校になっていますが、南東側は公園として整備され、堀と土塁が残っています。
【場所・アクセス・地図】

