【藩名】
多胡藩
【説明】
幕末期の多胡藩主は「松平勝行」で九十九里「真忠組」の反乱鎮圧で功績を挙げました。戊辰戦争が勃発すると勝行は徳川幕府との決別を示すために松平姓から元の久松姓に戻しました。
翌年の「版籍奉還」で多胡藩知事となったが、まもなく明治2年8月に死去し、家督は「久松勝慈」が継ぎました。明治4年(1871年)の「廃藩置県」で多胡藩は廃藩となります。その後、多胡県、新治県を経て千葉県に編入されました。
上総の一万石・多胡藩
多胡藩は、上総国(現在の千葉県)に置かれた一万石の小藩で、藩主は徳川家康の異父弟の家系につらなる久松松平家(久松家)でした。石高は大名として最小級ですが、江戸を間近に控えた房総の地を預かる、幕府にとって身近な藩の一つでした。
真忠組の乱の鎮圧
幕末の上総では、世直しを掲げて武装蜂起した「真忠組」による騒乱が起こりました。多胡藩は、この真忠組の乱の鎮圧に加わって功績をあげたと伝えられます。小藩ながら、地元の治安維持の一翼を担い、動乱の時代における地域の守り手としての役割を果たしたのです。
多胡か、多古か
この藩の名は「多胡」と書かれたり「多古」と書かれたりします。『寛政重修諸家譜』には保科正光の項に「多胡」の表記が見え、一方で現在の地名と自治体名は千葉県香取郡多古町です。どちらが正式かを決める一次史料は見当たらず、両方の表記が併存しているのが実情です。
久松松平家のもとで藩が固まったのは正徳三年(1713年)で、松平勝以が三千石を加えられて一万二千石となったときでした。以後、廃藩置県まで家は続きます。なお石高については一万石と記す資料もあります。
真忠組の乱——一日で壊滅した「世直し」
幕末の上総で起きた真忠組の乱は、多胡藩の名が歴史に残る数少ない場面です。
文久三年十二月四日、野州浪人を称する楠音次郎らが上総国山辺郡小関新田の旅館「大村屋」を接収し、「真忠組義士旅館」の看板を掲げて本営としました。組員は八十七名。茂原村の東光院と八日市場村の福善寺に分営が置かれ、茂原の分営は三浦帯刀が率いています。彼らは世直しを掲げ、豪商から金穀を出させて貧民に配りました。
幕府の対応は速く、そして徹底していました。元治元年一月十七日、藩兵およそ千五百人が動員されます。主力は奥州福島藩の板倉勝顕の手勢と関東取締出役の馬場俊蔵で、これに多胡藩と一宮藩の兵が加わり、小関村の本営を急襲しました。大村屋は大砲と小銃で攻められ、楠音次郎ら七人が討たれるか自刃します。三浦帯刀らは剃金村で一宮藩兵に迎え撃たれて捕らえられ、福善寺の分営も本営陥落の報で解散しました。わずか一日の出来事です。三月二十九日には、田間村の刑場で三浦帯刀ら十二人が斬られました。
多胡藩は幕府の命を受け、関東取締出役の指揮下で動いています。藩主の勝行自身はこのとき京都在勤で国元におらず、藩は元治元年十一月に褒詞を受けました。
松平姓を捨てて久松に戻った藩主
幕末の藩主は松平勝行です。天保三年(1832年)の生まれで、嘉永元年(1848年)に家督を継ぎました。幕府では安政二年に大坂加番代、文久二年八月に二条城定番、文久三年六月に二条城勤番、元治元年七月に大蔵少輔と進んでいます。
転機は慶応四年でした。鳥羽・伏見の戦いののち、二月二十四日に勝行は松平姓を捨てて元の久松姓に戻します。徳川家との訣別を新政府に示すための改姓でした。明治二年六月に多胡藩知事となりますが、同年八月五日に三十八歳で世を去ります。知藩事の職にあるままの死で、隠居して家督を譲ったわけではありませんでした。跡を継いだのが久松勝慈で、明治四年の廃藩置県を迎えます。
多古の町と史跡
多胡陣屋の跡は千葉県香取郡多古町多古、いまの多古第一小学校の敷地にあたります。標高十五メートルほどの丘の上で、陣屋の広さはおよそ一万五千平方メートルと推定されています。遺構はほとんど失われましたが、正門のわきから見える校庭のところに石垣が残り、これが陣屋当時のものとされます。
陣屋のすぐ近くには日蓮宗の妙光寺があります。弘安年間の創建と伝わり、戦国期には多古城主の牛尾氏が篤く信仰し、天正五年(1577年)に現在地へ移して祈願所としました。千葉県指定の木造伝妙見菩薩倚像を伝えています。町の南には正東山日本寺があり、慶長四年(1599年)から明治八年(1875年)まで中村檀林が開かれ、二百七十年あまりで延べ十万人の僧を世に送り出しました。小西檀林・飯高檀林と並ぶ関東三大檀林の一つです。
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