藩の歩み
元禄五年(1692年)、大聖寺藩の第2代藩主「前田利明」が死去し、その跡を三男「前田利直」が継ぎました。このとき、利直は弟の「前田利昌」に一万石を分与し大聖寺新田藩が立藩されました。
宝永六年(1709年)、第5代将軍「徳川綱吉」が死去し、その葬儀が寛永寺にて行なわれました。このとき、大和柳本藩主である「織田秀親」が、朝廷からの使者に対する御馳走役を命じられます。同じく、前田利昌もこの役に任じられました。ところが利昌は二月六日、綱吉の法会が寛永寺で行なわれている時に寛永寺の厠に赴いた秀親を殺害しました。このため、利昌はその身柄を山城淀藩主「石川義孝」に預けられ、同月十八日に切腹となり大聖寺新田藩は廃藩となりました。
本家・大聖寺藩との関係
大聖寺新田藩は、加賀の大聖寺藩(加賀藩支藩)からさらに分かれた前田家一万石の藩でした。もとをたどれば加賀百万石の前田家に連なります。
ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主・前田利昌が、将軍の葬儀の場で柳本藩主・織田秀親を殺害するという事件を起こし、改易・廃藩となりました。幕末の加賀・大聖寺の動きは本家のページをご覧ください。
藩庁も領地もありませんでした
この藩は大聖寺藩の収入から一万石分を受け取るだけの内分の分家で、領地も藩庁も持ちませんでした。藩主は江戸に住み、便宜上「新田藩」と呼ばれただけです。存続はわずか十八年、藩主は前田利昌ひとりでした。なお事件の日付は二月六日とも二月十六日とも記され、資料によって割れています。切腹が二月十八日であることは各資料が一致しています。
一万石は、本家に戻りました
利昌の切腹で一万石はいったん幕府に収公され、まもなく大聖寺藩へ返されました。大聖寺藩が十万石を名乗るようになるのはずっとあとのことで、新田藩の廃止とは別の話です。この高直しは文政四年とする資料と文政十年とする資料があり、年次が一致しません。いずれにせよ実収を伴わない石直しでしたので、藩の財政はかえって苦しくなりました。江戸城中の席次や門構えといった体面のためだったと説明されています。
幕末の大聖寺藩
幕末の藩主は十四代・前田利鬯です。安政二年に末期養子として家を継ぎ、天狗党の乱や禁門の変、御所の警備、東叡山の守備で功を挙げました。慶応四年には旧幕府方につこうとしましたが、鳥羽伏見の敗報を受けて新政府側に転じ、北越戦争へ出兵しています。廃藩置県のあとは大聖寺県から金沢県に併合され、藩の借金を整理するための重い税に一揆が起きました。藩庁だった大聖寺陣屋は、一国一城令で廃された大聖寺城跡の東側に置かれたものです。その大聖寺城跡は令和七年九月に国の史跡となりました。
九谷焼を生んだ大聖寺藩
大聖寺新田藩の本家・大聖寺藩は、加賀藩三代藩主・前田利常が寛永十六年(1639)に三男の利治に七万石を分けて立てた藩です。初代の利治は、領内の九谷村(いまの石川県加賀市山中温泉九谷町)で良質の陶石が見つかると、家臣の後藤才次郎を肥前の有田に学ばせ、明暦年間(1655年ごろ)に窯を開かせたと伝えられます。こうして生まれた、濃い緑・黄・紫などで大胆な絵を描いた磁器が、のちに「古九谷」と呼ばれるようになりました。窯は数十年で途絶えますが、江戸後期に再興され、九谷焼は加賀を代表する工芸として幕末から明治へ受け継がれます。
斬られた側—織田有楽斎の家
前田利昌に斬られた柳本藩主・織田秀親は、織田信長の弟で茶人として知られる織田有楽斎(長益)の流れをくむ家の当主でした。有楽斎は信長の死後も豊臣・徳川のあいだを巧みに生き抜き、その子孫は大和の柳本藩と芝村藩の二家の大名として明治まで続いています(御牧藩の項も参照)。被害者の家は藩主を失ったものの、跡継ぎが認められて存続しました。加害者の家は一代で消え、被害者の家が幕末まで残ったのです。
将軍の葬儀という最も慎むべき場での刃傷は、八年前の元禄十四年(1701)に浅野内匠頭が江戸城で吉良上野介に斬りつけた事件を思い起こさせるものでした。江戸の町では、この宝永の事件もしばらく語り草になったといわれます。
将軍綱吉の葬儀中の刃傷—前田利昌と織田秀親
中宮使と大准后使の饗応役
宝永六年(1709年)、五代将軍綱吉の葬儀が上野の寛永寺で行われました。大聖寺新田藩主・前田利昌は中宮使の饗応役、大和柳本藩主・織田秀親は大准后使の饗応役を命じられていました。指南役の高家は、八年前の赤穂事件を気にして、指導を秀親に任せていたといいます。利昌は大聖寺藩二代・前田利明の四男で、姉妹は松平信庸や水野忠周、南部家などに嫁いでいます。
奉書を回さなかった
事件の発端は二月十五日です。秀親が老中の奉書を利昌に回さず、利昌は小刀に手をかけましたが、赤穂事件を思って一度は思いとどまったとされます。翌十六日(六日とする資料もあります)、寛永寺吉祥院の宿坊で、利昌は秀親を刺し殺したとされます。家老が秀親を後ろから羽交い締めにしたとも伝わります。利昌は切腹を命じられ、大聖寺新田藩は取り潰されました。
斬られた側の藩の機転
斬られた柳本藩では、跡継ぎがいないため取り潰されるおそれがありました。家老たちは秀親を「病死」と届け出て、弟を養子にして藩を守りました。赤穂事件では斬った側が取り潰されましたが、この事件では斬られた側が知恵で家を残したのです。柳本陣屋の跡は、いまの天理市の黒塚古墳にあたります。
本藩の北前船の村
本藩の大聖寺藩領には、北前船主の集落・橋立(加賀市)がありました。平成十七年(2005年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれ、大正時代の雑誌は「日本一の富豪村」と紹介しています。船主の屋敷・蔵六園には、大聖寺藩主を迎える座敷も残ります。将軍の葬儀の場で起きた刃傷と、日本海を行き来した北前船。大聖寺新田藩のページには、この二つを並べておきたいと思います。



