皆川藩/米倉家1万5千石:米倉忠仰 武蔵六浦藩へ移封のため廃藩

【藩名】
皆川藩

【説明】
元禄12年(1699年)、上野・武蔵・相模などに1万石を領していた若年寄の「米倉昌尹」が5000石加増の1万5000石で入封します。昌尹は同年7月12日に死去し、その跡を継いだ第2代藩主「米倉昌明」のとき、弟「米倉昌仲」に3000石を分与したため1万2000石となりました。

米倉昌明は元禄15年(1702年)4月25日に死去し、その後を「米倉昌照」が継ぎました。昌照は正徳2年(1712年)5月23日に死去し、跡を忠仰が継いだが、忠仰の代の享保7年(1722年)、居館を「武蔵六浦藩」に移したため、皆川藩は廃藩となりました。

【廃藩のあと——横浜の大名が持ち続けた山あい】

享保七年(1722年)に米倉忠仰が武蔵の金沢へ移って皆川藩は廃藩となりました。ところが話はそこで終わりません。米倉家は下野の領地をそのまま持ち続け、皆川は幕末まで六浦藩の飛地でした。六浦藩は現在の横浜市金沢区にあった藩です。

幕末の記録では皆川城内村は二千二百八十六石余、領主は武蔵六浦藩と社寺領。米倉家の下野領は都賀郡と安蘇郡に広がっていました。

幕末の藩主米倉昌言は万延元年(1860年)に家督を継ぎ、第一次・第二次の長州征討に従軍しています。慶応三年の末には横須賀製鉄所の警護を務めました。そして慶応四年の東征にあたっては、いち早く新政府に恭順して横浜取締役となっています。開港場を抱えた藩ならではの動きでした。

その殿様の飛地である皆川の近くでは、慶応三年十一月二十九日、出流山満願寺で竹内啓らが挙兵しています。出流山は皆川城の北西およそ十キロ、同じ栃木市の西部の山あいです。十二月十一日には栃木町の念仏橋で戦闘となり、十三日に新里村で壊滅しました。皆川がこの騒動の圏内にあったことは確かですが、皆川の村で何が起きたかを伝える記録は見つけられませんでした。

皆川城址は山の形から「法螺貝城」と呼ばれます。栃木市の史跡で城址公園として整備され、幅九メートル、深さ四〜五メートルの竪堀が復元されています。

なお六浦藩はもともと「金沢藩」と称していましたが、加賀の金沢と紛らわしいため明治二年に六浦藩と改めました。

【場所・アクセス・地図】

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