池内蔵太家族 宛(23通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

池内蔵太家族 宛

原文
時々の事ハ外よりも御聞被遊候べし。然ニ先月─初五月ナリシ─長国下の関と申所ニ参り滞留致し候節、蔵に久しくあハぬ故たずね候所、夫ハ三日路も外遠き所に居候より其ま〃ニおき候所、ふと蔵ハ外の用事ニて私しのやどへまいり、たがいに手おうち候て、天なる哉々、きみよふ々と笑申候。このごろハ蔵一向病きもなく、はなはだたしやなる事なり。中ニもかんしんなる事ハ、いつかふうちのことをたずねず、修日だんじ候所ハ、唯天下国家の事のみ。実に盛と云べし。夫よりたがいにさきゞの事ちかい候て、是より、もふつまらぬ戦ハをこすまい、つまらぬ事にて死まいと、たがいニかたくやくそく致し候。おしてお国より出し人ニ、戦ニて命ををとし候者の数ハ、前後八十名斗ニて、蔵ハ八九度も戦場に弾丸矢石ををかし候得ども、手きずこれなく此ころ蔵がじまん致し候ニハ、戦にのぞみ敵合三四十間ニなり、両方より大砲小銃打発候得バ、自分もちてをる筒や、左右大砲の車などへ、飛来りて中る丸のおとバチ々、其時大ていの人ハ敵ニつ〃の火が見ゆると、地にひれふし候。蔵ハ論じて是ほどの近ニて地へふしても、丸の飛行事ハ早きものゆへ、むへきなりとてよくしんぼふ致し、つきたちてよくさしづ致し、蔵がじまんニて候。いつたい蔵ハふだんニハ、やかましくにくまれ口チ斗い〃てにくまれ候へども、いくさになると人がよくなりたるよふ、皆がかわいがるよしニて、大笑致し候事ニて候。申上る事ハ千万なれバ、先ハこれまで、早々。かしこ。九月九日龍池さま杉さま猶〃、もちのおば〃ハいかゞや、おくばんバさんなどいかゞや、平のおなんハいかゞや。其内のぼたもちハいかゞや。あれハ、孫三郎、孫二郎お養子ニすはずなりしが是もとがめにか〃りし、いかゞにや時々ハ思ひ出し候。〇あのまどころの島与が二男並馬ハ、戦場ニて人を切る事、実ニ高名なりしが、故ありて先日賊にかこまれ─其かず二百斗なりしよし。─はらきりて死にたり。このころ時々京ニ出おり候ものゆへ、おくにへたよりよろしきなり。然バお内の事、ずいぶんこいしく候あいだ、皆々様おんふみつかわされたく候。蔵にも下され度候。私にハあいかわらず、つまらん事斗御もふし被成候に、お〃きに私方もたのしみニなり申候。あのかわの〃むすめハ、このころハいかゞニなり候や、あれがよみ出したる月の歌、諸国の人が知りており候、かしこ。お国の事お思へバ、扨今日ハ節句とてもめんののりかいきものなどごそ々と、女ハおしろいあぎのかまほねより先キに斗、ちよふどかいつりの面の如くおかしく候や。せんも京ニてハぎおん新地と申ところにまいり候。夫ハかのげいしやなどハ、西町のねへさんたちとハかわり候。思ふニ、然レ共あの門田宇平がむすめ下本かるもが、さかり三林亡などなどお出し候時ハ、そのよふニおどりハ致すまじく、たあほふのよふたばかりかわり候べし。〇時に広瀬のばんばさんハ、もふしにハすまいかと存候。〇わたしがお国の人をきづかうハ、私しのうバの事ニて時々人にい〃、このごろハ又うバがでたとわらハれ候。御目にあたり候得バ、御かわいがりねんじいり候。〇世の中も人の心もさわいだり、みだれたり致候得バ、かへりてしづまり候て、治世のよふなり候。なりかへりて一絃琴などおんはじめ、いかゞ。かしこ。〇文おんこしなれバ、乙女におんたのみぢきとどき申候。このころハよきたよりにでき候。蔵にもかならず御こし、かしこ。池さま杉さま各女中衆龍より
現代文
時勢の事は他から聞いてるかもしれませんね。先月(閏五月)、長州の下関というところに行って滞在していた折、池内蔵太に最近会っていなかったので会いに来ましたが、内蔵太がいる場所は行くのに3日もかかる遠いところなので、このまま行かないでいました。ところが、私の滞在している宿に他の用事でたまたま内蔵太が訪ねてきたので、お互いに手を取り、天が導いたものか奇妙なりと話しました。

最近内蔵太は病気もなく達者にしているとのこと。その中でも肝心なことは、一向に家の事などは話さず、終日天下国家のことのみを話していたことです。実に頼もしいことです。そして、お互いに先々のことを誓って、これからはもうつまらない戦争はおこさないこと、つまらないことで死なないことをお互いに固く約束しました。土佐から出てきて戦争で命を落とした人の数は80人前後にものぼり、内蔵太などは8・9回も戦場で鉄砲を撃たれたりたが、手傷すらなく、これが内蔵太の自慢になっている。

戦に臨み敵と三・四十間の距離で双方大砲・鉄砲を打つと、自分がもっている鉄砲や左右の大砲の車などに飛んできた弾が当たりバチバチと鳴り、たいていの人は敵の鉄砲に火が見えると地にひれ伏します。内蔵太の話しでは、これだけの近い距離では地にひれ伏しても鉄砲玉の飛ぶ勢いは早いので、無駄だと思いながらもよく辛抱し、立ち続けながら色々と戦の指図をしたと内蔵太が自慢していた。いつも内蔵太はやかましくて、憎まれ口ばかり言っていて嫌われているが、戦になると人が変わり、みんなから良く思われるようで、大笑いしてしまいました。言いたいことは多いのですが、まずはこれまでにします。

9月9日龍馬、池様、杉さま(内蔵太の母方の実家)なお、もちのおばばはいかがかな?おくばんばなどはいかがかな?平のおなんはいかがかな?このうち、ぼたもちはいかがかな?(※もちのおばば、おくばんば、平のおなん、ぼたもちは杉家の女中かと思われ、もしくは坂本家の女中か、それぞれ龍馬があだなをつけていたものと推測される)孫三郎・孫二郎を養子にするはずでしたが、これもお咎めにかかってしまい、どうなったかと時々思い出しています。(※孫三郎、孫二郎は小畑兄弟か?土佐勤皇党の中にこの兄弟も加盟していて兄弟ともに親しかったようです)あのまどころ(政所:政務をおこなう機関)の島浪間は戦場にて人を切ること、実に高名ですが、わけあって先日賊200人あまりに囲まれて、腹を切って死にました。(※島浪間:吉村寅太郎らとともに大和で天誅組に加わるも戦に敗れて長州へ逃れる。やがて再起を図るために大阪へきて活動を開始し、岡山県のあたりへ同志を募るために遊説に出るが金策をしたところ、盗賊と間違われて大勢に囲まれて自刃した)最近は京都へも行くので、土佐へ手紙をだすことも出来ます。

それから家のことですが、最近は随分と恋しくなりました。皆さまもお手紙を送ってくだい。また、内蔵太にも手紙を書いて下さい。皆さまは相変わらず私につまらないことばかりおっしゃいますが、それが私にはおおいに楽しみになっています。あの河野の娘はいかがしてますか?あれが読んだ月の歌、諸国の人が知っていますよ。お国のことを思えば、さて今日は節句なので、女はごそごそと木綿の着物に糊をきかして、おしろいをあごの先の方に塗って、ちょうど粥釣(かゆつり)の変装顔のようにして面白いのを思い出します。※アゴカマ(顎かま)まぐろやブリなどのあごの部分は釜に似ていることからアゴカマと言います。※粥釣高知県の辺りで行われる風習で子供が変装して他家からお米をもらいに歩いた。

先日は京都で祇園新地というところに行きました。そこの芸者などは西町(土佐の町)の姉さん達とは違います。思うに、門田宇平(土佐に一弦琴を伝えた人)の娘の元本かるも(平安末期から鎌倉初期にかけて成立した物語)で三林亡(その日の吉凶を占う)などを出すとき時はそのような踊りせず、酔っぱらうところだけが違う。時に広瀬のばばさんはもうそろそろ死にはすまいか?私が国(土佐)の人を気遣う時に、私の乳母のこと(龍馬は乳母が好きだった)を話すと、「また乳母の話が出た出た」と周りから笑われます。

(私の乳母に)お会いになることがあれば、どうかかわいがってやってください。世の中も人の心も騒いだり、乱れたりしていますが、かえって静まり、太平の世のようになるものです。そうなったら、一絃琴などお始めになってはいかがですか。お手紙を頂けるのであれば、乙女姉さんに頼めばこちらに届きます。このごろは手紙を届けるのによいつてができました。内蔵太にも必ず手紙を下さいね。池様、杉さま、各女中様、龍馬より

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

下関での再会を伝えた手紙をくわしく読む

いつ書かれたのか

日付は「九月九日」で、宛名は「池さま・杉さま」。池内蔵太の家族と、その縁者の家にあてた手紙です。下関で内蔵太と再会したことを伝えているので、慶応元年(1865)九月九日、家族に「桂小五郎なるものあり」の手紙を書いたのと同じ日の一通と考えられます。

「天なる哉」の再会

龍馬がこの年の閏五月に下関に入ったとき、内蔵太は三日もかかる遠い所にいたため、会うのをあきらめていました。ところが内蔵太が別の用事で龍馬の宿にひょっこり現れ、二人は手を打って「天なる哉、奇妙奇妙」と笑い合ったといいます。本文の「先月」は、書いた九月から見ればずっと前なので、実際にはこの夏の出来事を指しています。二年前、脱藩した内蔵太の母に龍馬がなぐさめの手紙を送っていたことを思えば、家族にとって何よりの知らせだったはずです。

「つまらぬ事にて死まい」という約束

内蔵太は家のことを一つもたずねず、話すのは天下国家のことばかりだった、と龍馬は感心しています。そして二人は、もうつまらない戦は起こすまい、つまらない事で死ぬまいと固く約束しました。土佐から出た者のうち、戦で命を落とした者はすでに八十人ほどにのぼっていたと龍馬は書いています。天誅組、禁門の変と戦い続けてきた内蔵太の命を、龍馬は亀山社中の仕事に生かしたいと考えていたのでしょう。

戦場での内蔵太

内蔵太は八、九度も戦場に出ながら傷ひとつなく、敵と三、四十間(五、六十メートル)の距離で撃ち合っても、伏せずに立ったまま指図をしたのが自慢だったといいます。ふだんは口やかましく憎まれ口ばかりたたくのに、戦になると人が変わったようにやさしくなり、皆にかわいがられる、と龍馬は笑っています。家族が読んで思わずほほえむように書かれた、細やかな人物描写です。

約束のその後

この手紙からわずか八か月後の慶応二年(1866)五月、内蔵太は亀山社中のワイルウェフ号に乗って長崎から鹿児島へ向かう途中、五島の潮合崎沖で遭難して亡くなりました。戦場では弾に当たらなかった内蔵太が、海で命を落としたことになります。「つまらぬ事にて死まい」と誓い合ったこの手紙は、その結末を知ってから読むと、いっそう重く響きます。

追伸にあふれる里心

追伸では、近所のおばさんたちの様子や、ぼたもちのこと、町の娘が詠んだ月の歌のことまでたずね、家族からの手紙がほしい、内蔵太にも書いてやってほしいと頼んでいます。天下のことを語る本文とは対照的に、故郷の人々の顔を一人ひとり思い浮かべる龍馬の姿がうかがえます。

この手紙について

同志・池内蔵太の家族へ宛てた手紙です。閏五月から長州の下関に滞在していること、遠方にいる内蔵太となかなか会えずにいたところ、たまたま宿を訪ねてきた内蔵太と手を取り合い「天の導きか」と喜び合ったことを伝えています。内蔵太が達者にしている様子を家族に知らせる、龍馬の温かい心づかいがあふれた一通です。

宛先「池内蔵太の家族」とはどんな人物か

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

土佐脱藩の同志・池内蔵太の家族です。内蔵太は龍馬と苦楽を共にした志士で、慶応元年(1865)に亀山社中に加わりましたが、翌慶応二年、海援隊の結成を待たずに海難で命を落とします。龍馬はその家族に、息子の無事を繰り返し伝えていました。

この手紙が書かれたころ

下関を拠点に、薩摩と長州の間を行き来していたころの龍馬です。薩長を結ぶ大仕事のかたわら、遠く離れた同志の家族の心情にまで気を配る、その面倒見のよさが龍馬の人望の源でした。第二次長州征伐を目前に、下関は倒幕へ動く長州の最前線となっていました。この地で薩長の物資や人が結びつき、やがて歴史を変える同盟への道が開かれていきます。土佐を離れた志士たちは、長州や薩摩の地でそれぞれの戦いを続けていました。内蔵太もその一人で、龍馬はこうした同郷の同志との絆を、生涯大切にし続けました。

同じころの九州—太宰府の五卿と中岡慎太郎

太宰府では 文久三年の政変で長州へ落ちた三条実美ら攘夷派の公家は、慶応元年(1865)の初めから筑前の太宰府に移されていました(七卿のうち五人が残っていたため「五卿」と呼ばれます)。太宰府には各地の志士が出入りし、薩摩と長州を結ぶための話し合いの場ともなっていました。

中岡慎太郎の働き その中心で動いていたのが、龍馬と同じ土佐の脱藩浪士・中岡慎太郎です。中岡は五卿のもとと京都・薩摩・長州のあいだを走り回り、龍馬とともに薩長の和解を説きました。龍馬が池内蔵太の家族に無事を知らせたこの手紙のころ、土佐の脱藩浪士たちは、藩の外から国の行方にかかわる仕事をしていたのです。

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