勝海舟 宛(黒龍丸のこと)
| 原文 |
| 龍馬謹白黒龍丸の船将云々の議論もて、其御船を軍艦となし、大砲を積、数年交代しつ〃、且ハ神戸をも守らむといふ。─軍艦といはゞ江戸の外の物ならぬ心より、─右の論に決せむ有様有故に左の愁願をなせり。 |
| 現代文 |
| 龍馬より黒龍丸の船うんぬんの議論では、この船を軍艦とし、大砲を積んで数年間交代しつつ、かつ神戸を守ろうという。軍艦といえば、江戸(徳川幕府)以外のものではならぬとの考えにより上記の議論に決まりそうな様子なので、次のとおりお願いを申し上げます。 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「黒龍丸を軍艦とし、大砲を積んで神戸を守るという議論があります。だが『軍艦は幕府のものでなければならぬ』という考えでそう決まりそうなので、お願いを申し上げたい」と、船の扱いをめぐって師・勝海舟に再検討を願う手紙です。龍馬が勝の下で海軍づくりに関わっていた、元治元年(1864)ごろの神戸海軍操練所の時期の貴重な一通とみられます。
宛先「勝海舟」とは

勝海舟(かつ かいしゅう)は幕臣で軍艦奉行をつとめ、神戸海軍操練所を開いて、龍馬のような脱藩浪士までも受け入れて海軍を育てました。龍馬の恩師であり、日本海軍の生みの親ともいえる人物です。
この手紙が書かれたころ
勝海舟の門下で航海術と海軍思想を学び、のちの海援隊につながる素地を築いていた時期です。船のあり方をめぐる議論にも、臆せず自分の意見を述べています。幕府内では海軍のあり方が激しく議論され、開明派の勝海舟は難しい立場に立たされていました。まもなく神戸海軍操練所は閉鎖へと追い込まれます。土佐藩は勤王党への弾圧が最も厳しい時期にありました。脱藩の龍馬は帰る場所を失い、勝海舟の庇護のもとで海の道を歩み始めていました。
黒龍丸を軍艦にして、神戸を守る
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』はこの一通を、宛先も年も推定のうえで、元治元年九月十五日の勝海舟宛としています。本文中に「九月拾五日」とあることが手がかりです。黒龍丸の船将をどうするかという議論から、その船を軍艦にして大砲を積み、数年ごとに交代しながら神戸も守らせよう、という話が決まりそうな有様なので、次のとおり願い出る—という書き出しで、肝心の「左の愁願」の中身は収められていません。
元治元年は、勝海舟が神戸に海軍操練所を開き、龍馬がそこで塾頭をつとめていた年です。ところが六月の池田屋事件、七月の禁門の変で操練所の塾生から長州方に加わる者が出て、勝は十月に江戸へ呼び戻され、翌年には操練所も閉じられます。九月十五日という日付は、その勝の失脚の直前にあたります。「軍艦といえば江戸のほかのものではない」という幕府の考えに対して、龍馬が何を願い出ようとしたのかは分かりませんが、神戸の海軍を守ろうとしていたことだけは読み取れます。宮地の本文では「大炮」と書かれています。
同じころの日本と土佐—元治元年九月
世の中では 元治元年(1864)の夏から秋は、激動の連続でした。六月五日の池田屋事件では、神戸の海軍操練所に学んでいた土佐の望月亀弥太が命を落とし、七月十九日には禁門の変が起きます。八月には四国連合艦隊が下関を砲撃し、幕府は第一次長州征討の軍を動かしました。この手紙の数日前の九月十一日、勝海舟は大坂で薩摩の西郷隆盛と初めて会い、西郷は勝の人物に深く感じ入ったと伝えられます。
土佐では 九月五日、土佐の東部・野根山に集まって武市半平太らの釈放を求めた勤王党の二十三人が、奈半利川の河原で処刑されました。勝のもとで神戸の海軍づくりに取り組んでいた龍馬にとっても、故郷の仲間の死は他人ごとではありませんでした。一方の勝も、操練所から過激な浪士を出したことを問われ、十月には江戸へ呼び戻され、十一月に軍艦奉行を免じられます。
元治元年、神戸海軍操練所の龍馬
勝海舟のもとで
元治元年五月、勝海舟の建議で、神戸に海軍操練所が開かれました。龍馬は勝の私塾の塾頭格として、操練所に集まる若者たちをまとめる立場にありました。黒龍丸は、操練所の練習や運用に使われた船の一つです。この手紙は、その船を軍艦として神戸の守りに使う議論について、勝に意見を伝えたものです。
禁門の変と、操練所の終わり
この年の七月、長州藩兵が京都に攻め込み、禁門の変が起きました。操練所の塾生の中から長州方に加わった者が出たこともあって、操練所は幕府から疑いの目で見られます。勝はこの年の十一月に軍艦奉行を罷免され、操練所も翌年三月に閉じられました。行き場を失った龍馬たちは、薩摩藩の庇護を受けることになります。
弾圧される勤王党
同じころの土佐では、前の年の九月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党への弾圧が続いていました。土佐藩は、操練所に学んでいた藩士たちに帰国を命じています。龍馬の甥の高松太郎も、操練所に学んだ一人でした。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



