相良屋源之助 宛

相良屋源之助 宛

原文
二白、御家内へも宜敷御伝声可被下候、以上。一筆啓上仕候。冷気次第に相増し候へ共、弥御安全可被成目出度奉存候。随而野生儀道中筋無異議江戸に着仕り、築地屋敷に罷在候。乍憚御休意被下度候。陳者出足の節は御懇念被下、又御見事成る御送物被下千万忝き次第に奉存候。早速御礼申上筈の処、失礼に打過ぎ候段、御仁免可被下候。定而御国下御静謐恐悦至極と奉存候。先者右御礼迄、早々如此に御座候。恐惶謹言九月二十九日坂本龍馬相良屋源之助様御左右
現代文
まず、家族へも宜しくお伝え下さいませ。一筆書かせて頂きます。次第に寒くなってきましたが、いよいよ安全であることめでたく思います。私は道中何事もなく江戸に着き、築地屋敷(土佐藩邸)に到着しました。はばかりながら、ご安心ください。さて、私が出発するときは(高知県を)心配りをして下さり、また、見事な贈り物を頂きましてありがとうございます。早々にお礼をすべきでしたが、ご勘弁下さいませ。また、国元もお変わりなく静かなようでうれしく思います。まずは、上記のごとく、早々にお礼申し上げます。9月29日坂本龍馬相良屋源之助様(龍馬の近所の豪商)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

剣術修行のため江戸に上った龍馬が、旅立ちの際に世話になった相良屋源之助へ宛てた、到着報告と礼状です。道中つつがなく江戸の土佐藩邸(築地)に着いたことを伝え、餞別や心づかいへの謝意を、折り目正しい候文でしたためています。血なまぐさい政談ではなく、若き龍馬の律義な人づきあいがうかがえる一通です。

宛先「相良屋源之助」とはどんな人物か

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

龍馬の江戸出立を世話し、餞別まで贈った知人です。手紙の丁重な調子から、龍馬が世話になり、礼を尽くすべき年長の相手であったことが読み取れます。若き日の龍馬を支えた、こうした市井の人々の存在も見逃せません。

この手紙が書かれたころ

まだ剣術修行に励む一青年で、政治の表舞台とは無縁でした。しかし江戸で諸国の人と交わり、世の動きに触れる日々が、のちに藩の枠を越えて活動する龍馬の素地を養っていきます。黒船来航ののち、幕府は開国へと舵を切り、通商条約の交渉が進みました。攘夷か開国かをめぐって国内の対立が深まり、やがて安政の大獄という嵐へと向かう、緊張をはらんだ時代でした。この時期の土佐藩では、藩主山内家のもとで参政・吉田東洋による藩政改革が進み、有為の人材が育ちつつありました。江戸に学ぶ龍馬もまた、その時代の空気のなかにいた一人です。

「乍憚御休意被下度候」に込めた無事の知らせ

手紙の日付は「九月二十九日」だけで、宮地佐一郎はこれを安政三年のものと比定しています。宮地の本では第二番目にあたり、第一番の嘉永六年九月二十三日付の父あての手紙と同じく、秋の時候のあいさつから書き起こされています。本文の「乍憚御休意被下度候」は「はばかりながらご安心ください」という決まった言い回しで、江戸の築地屋敷に無事着いたことを知らせる文脈に置かれています。

宮地は本文の出典として、『関係文書』第一と千頭清臣の伝記『坂本龍馬』を挙げています。宛先の相良屋源之助については、本文から分かるのは出立の際に心を配り、贈り物をしてくれた相手ということまでです。宮地の本で次に置かれた安政五年七月頃の乙女あての手紙には「明日は千葉へ」とあり、江戸での剣術の日々がその後も続いたことがうかがえます。

同じころの日本—安政三年

世の中では 安政三年(1856)、幕府は前年の大地震からの立て直しを進めながら、西洋の学問と軍事を取り入れる仕組みづくりを急いでいました。この年の春には旗本や御家人に洋式の砲術や剣術・槍術を教える講武所が江戸に開かれ、外国の書物を研究する蕃書調所の設立も決まります。七月には、アメリカの総領事ハリスが伊豆の下田に着任し、通商条約を結ぶよう幕府に迫り始めました。

土佐と龍馬 龍馬はこの年の八月、二度目の江戸遊学に出発しています。江戸ではふたたび千葉道場で剣を磨き、のちに北辰一刀流の免許を得たと伝えられます。土佐では藩主・山内容堂のもと、吉田東洋が藩政の改革を担っていました。

安政三年、二度目の江戸行きと坂本家

父の死から一年足らず

この手紙は、龍馬が二度目の江戸遊学に出て、江戸の土佐藩邸に着いたことを知らせたものです。前の年の安政二年十二月に父・八平が亡くなり、兄の権平が家督を継いだばかりでした。父を亡くした翌年に、龍馬は再び剣術の修行のために江戸へ向かっています。出発のときに贈り物をしてくれた相手への礼状を書き送っているところに、故郷の人びととのつながりがうかがえます。

千葉道場と武市半平太

江戸での龍馬は、北辰一刀流の千葉定吉の道場で修行を重ねました。同じころ、のちに土佐勤王党を結成する武市半平太も江戸に出ており、鏡心明智流の桃井春蔵の道場で塾頭を務めています。二人はこの江戸でも顔を合わせていたと考えられます。

築地の土佐藩邸

手紙の「築地屋敷」は、江戸の築地にあった土佐藩の屋敷です。藩士やその家来たちは、江戸に出るとこうした藩邸に身を置きました。龍馬は安政五年まで江戸で修行を続け、その秋に土佐へ帰っています。

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