小谷 耕造【越前藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

小谷 耕造
出身 越前藩
職名

越前藩出身の海援隊士です。
一説によると亀山社中に出資した越前藩が幕府には内密に亀山社中に社員として送り込んだと言われています。
しかし、小谷耕造は資料などがとても乏しく詳細はわかっていません。

小谷 耕造【越前藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

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この隊士について

一般には「小谷耕蔵」と表記されます。越前国の出身で、慶応の初めごろ亀山社中に加わりました。いろは丸沈没事件では事態の収拾に奔走し、坂本龍馬らとともに紀州藩との交渉にあたっています。

隊内で佐幕論を唱えて疎まれたものの、龍馬が擁護したと伝えられます。生没年はいずれも不詳です。

亀山社中と海援隊について

亀山社中は慶応元年、神戸海軍操練所の廃止で行き場を失った坂本龍馬ら二十余名が、薩摩藩の保護と長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて長崎の亀山に置いた組織です。薩摩藩から一人あたり月三両二分が支給されていました。

ただし「亀山社中」という名称は当時のものではありません。同時代の史料に見えるのは「社中」という名乗りだけです。結成時に龍馬が長崎にいなかった可能性も指摘されており、実際に立ち会ったのは近藤長次郎や高松太郎らだったとする研究もあります。

慶応三年四月、龍馬の脱藩が赦免されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関「海援隊」と改称しました。海援隊約規は目的を「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」と定めており、射利——つまり利益追求を堂々と掲げていたのが特徴です。

隊士の人数は資料により異なり、辞典類は約五十名としています。同時代の隊士名簿にあたる史料は確認されていません。残っているのは『海援隊日史』『海援隊商事』(いずれも京都国立博物館蔵・重要文化財)などの記録類で、名簿ではありません。

そのため周辺の隊士は、生没年すら分からない人が少なくありません。海援隊が脱藩者を主体としたことも、記録が残りにくい理由の一つです。藩の人別帳や履歴から外れてしまうためです。

くわしくは海援隊士全56名情報をご覧ください。

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