松代城(海津城)について
松代城は武田信玄の時代に北信濃を抑えるために築城された「海津城」が前身の城で、上田城から移封された真田家により改修され近世城郭「松代城」が誕生しました。現在の長野県長野市にあった輪郭式平城で国の史跡に指定されています。

信濃松代藩は真田信之を祖とする家柄で、外様大名ながらも江戸時代を生き残り、維新後まで存続して無事に廃藩置県を迎えています。その間、藩主の血筋は入れ替わっているが、精強を謳われた家柄は幕末にも健在でした。
戦国の世が終わると、諸藩の平均的な動員力は一万石あたり百人程度になりました。それが松代藩では、十万石で三千人以上の動員力を幕末まで維持していたのでした。

いずれの藩でも藩士や足軽の身分を有する者は、分限帳と呼ばれる台帳に記されます。いざ戦う場面ともなれば、分限帳には載っていない庶民(人別帳に名が記されている)を雑兵や陣夫として動員する健前だったのだが、戊辰戦争に参戦した諸藩の例では、分限帳の範囲までしか動員できないのが普通でした。

ところが、松代藩の場合は分限帳だけで三千人以上を動員できました。戦国時代の動員力を、江戸時代の260年以上も維持し続けてきたのです。上田から松代への移封の際に、分限帳から消えた家も少なからずあるので、松代移転後には再編成の努力もあったことだろう・・。
松代藩の強さは数の多さばかりではありません。幕末に活躍した佐久間象山は松代藩士で、西洋式の大砲を鋳造したり、西洋の小銃を導入するなど松代藩の軍事力を近代化させました。

戊辰戦争では早い段階から新政府側に立ち、越後を経由して信濃へ進出してきた旧幕府軍の衝鋒隊を近隣諸藩とともに撃退し、立場を明確に示しました。旧幕府軍は西洋式の編成装備で、中小の藩にとっては大きな脅威だったのだが、それを松代藩が中心となって撃退したことで信濃の諸藩は新政府側につきました。
また、北越方面に転戦してからは朝日山の戦いで長州藩兵が敗退、それを救援しようとした薩摩藩兵までが崩れたったとき、松代藩兵の逆襲によって戦況が覆っています。
■ 象山神社にある佐久間象山象

新政府軍の最精鋭と目されていた薩長両藩の兵でもかなわなかった難敵を、松代藩兵が退けたのです。真田家の精強さは幕末にも健在でした。松代藩真田家は戦国時代さながら、幕末にもその勇姿を諸藩に見せつけたのですね。「鷹の子はやはり鷹」といったところでしょうか。
松代城は明治時代の廃城令とともに破却され石垣だけとなったが、近年長野市により土塁や堀、櫓門・木橋などを復元し一般公開されています。なお、松代城は三代藩主「真田幸道」の時に海津城から松代城へと改名されました。また、日本100名城26番に選定されています。
復元された太鼓門
松代城は明治の廃城ののち建物を失いましたが、平成十六年(2004)に本丸の太鼓門と北不明門、石垣や堀などが、発掘調査と古い絵図をもとに復元されました。城の入口にあたる太鼓門は、その名のとおり時を告げる太鼓が置かれた門です。
城下に残る真田家の屋敷と藩校
城の南には、元治元年(1864)に建てられた真田邸(新御殿)が残っています。九代藩主・真田幸教の義母のための住まいとして造られ、のちに真田家の住居となった建物で、江戸時代の大名の御殿が庭園とともにそのまま残る珍しい例です。
そのすぐ近くには、安政二年(1855)に開かれた藩校・文武学校も現存します。剣術所・柔術所・弓術所などがそろい、西洋砲術も教えられました。松代藩士の佐久間象山が唱えた西洋の学問を取り入れる考えが、藩の教育にも反映されています。象山は元治元年に京都で暗殺され、松代には象山を祀る象山神社が建てられています。
海津城から松代城へ、縄張りと城主の移り変わり
武田の海津城
松代城の前身は、武田信玄が川中島の押さえとして築かせた海津城です。永禄二年(1559年)ごろに着工し、翌三年に完成したとされます。『甲陽軍鑑』は、築城にあたったのを山本勘助としています。
丸馬出と三日月堀
松代城は、千曲川を背にした輪郭式の平城です。本丸を二の丸が三方から囲み、武田流の築城を思わせる丸馬出と三日月堀を備えていました。本丸は内堀の内側をすべて石垣で固め、太鼓門・北不明門・東不明門の三つの櫓門と、二重櫓四基を構えていました。北西の隅には、天守台ともいわれる戌亥隅櫓台が残ります。明和七年(1770年)には花の丸に御殿が建てられ、幕末までここが藩の政庁と藩主の住まいになりました。
森・松平・酒井、そして真田へ
江戸時代の初め、城主はめまぐるしく替わりました。慶長五年(1600年)に入った森忠政は、城の名を「待城」と改めています。続いて松平忠輝、松平忠昌、酒井忠勝が入りました。元和八年(1622年)に上田から真田信之が移ってからは、明治まで真田家の城となります。天和元年(1681年)に沼田領が切り離されてからの石高は、十万石でした。
善光寺地震と象山
弘化四年(1847年)の善光寺地震では、城の塀や櫓が大きく壊れ、藩の借財はさらにふくらみました。八代藩主の真田幸貫は老中として海防掛を務め、藩士の佐久間象山を取り立てています。象山は文化八年(1811年)に松代の浦町で生まれ、元治元年(1864年)に京都で河上彦斎らに斬られました。浦町の生家跡は県の史跡となっています。
遊園地から国史跡へ
明治五年(1872年)に廃城となり、城地は払い下げられて畑になりました。明治三十七年には、真田家が本丸跡を買い戻し、遊園地として開いています。昭和五十六年(1981年)に国の史跡に指定され、平成十六年(2004年)には太鼓門・堀・石垣・土塁などが復元されました。
場所・アクセス・地図
長野県長野市松代町松代



