萩城:長州藩は幕末に久坂玄瑞・高杉晋作などの志士を生み討幕へ 萩城(指月城)【お城特集 日本の歴史】

萩城は別名「指月城」とも呼ばれ、長州藩の政庁があった城です。明治時代初期の廃城令により破却されてしまったが古写真はいくつも残っています。幕末時には「吉田松陰」の教えを受けた「松下村塾」塾生達が討幕運動の先駆けとなり多くの命を落としました。

・久坂玄瑞
・高杉晋作
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萩城:幕末時は久坂玄瑞・高杉晋作などの志士を生み討幕への起爆剤となった長州藩 萩城(指月城)【お城特集 日本の歴史】

もともと毛利家は本拠地を「吉田郡山城」から「広島城」へと移し、中国地方一帯を治める大大名でした。しかし、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの敗戦により徳川家康から周防・長門の2ヶ国へと減封されてしまいます。さらに居城も日本海の僻地「萩」へ置くよう幕府より厳命され、藩主以下屈辱の極みでした。この屈辱を江戸時代を通し約250年忘れず、ついに幕末になってその積年の恨みが爆発しました。

萩城:長州藩は幕末に久坂玄瑞・高杉晋作などの志士を生み討幕へ 萩城(指月城)【お城特集 日本の歴史】

特に若い藩士達が率先して「尊王攘夷」を先駆け、途中からその思考が「討幕」へと変わっていきました。一方、萩城は松本川と橋本川に囲まれた三角州に建てられ指月山の山頂にある詰丸と、山麓の本丸・二の丸・三の丸から構成されていました。

萩城:幕末時は久坂玄瑞・高杉晋作などの志士を生み討幕への起爆剤となった長州藩 萩城(指月城)【お城特集 日本の歴史】

現在の萩城跡は指月公園として整備されており、二の丸の一部や三の丸の総門などが復元されています。また、松下村塾や明倫館跡、武家屋敷と共に観光の名所にもなっています。さらに萩城(指月城)は、日本100名城75番に選定されています。


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壊してくれと頼んだのは、毛利家のほうでした

萩城の天守が消えた経緯は、廃城令で一方的に壊されたという話とは少し違います。山口県の「おもしろ山口学」によれば、明治三年十一月、毛利氏が明治政府に対し「もはや封建制度の時代の城郭は不要」として萩城の破却を申請しました。天守が解体されたのは明治七年です。

解体前に撮られた天守の写真が萩博物館に残っています。五層の天守が建っていた天守台は高さ十・八メートルで、いまも残ります。城の建物はまったく失われたものの、縄張りの規模は当時のまま留めていると山口県の文化財データベースは記します。

藩庁は萩を出て、いったん戻り、また出ました

幕末の萩城でいちばん大きな出来事は、藩庁がここを離れたことです。毛利敬親は文久三年四月十六日、湯治を名目に萩を発って山口の中河原御茶屋に仮の政庁を置きました。五月十一日に高嶺御屋形と改称、六月十八日に山口政事堂を設置、七月二十日に山口移鎮の告諭が出ます。

ところが元治元年十月、完成したばかりの山口屋形は屋形も石門も堀も壊され、敬親と元徳の父子は萩へ戻って自主的に謹慎し、萩政事堂が再興されました。禁門の変のあと藩論が俗論派に振れた時期です。そして慶応二年五月十五日、山口屋形が二度目の竣工を迎え、以後はここが敬親の拠点になりました。廃藩置県のあと、この山口屋形の中に山口県庁が置かれます。

なお移転の年について、山口市の公式サイトの中でも文久三年とする記述と元治元年とする記述が併存しています。三年のあいだに行って戻ってまた出たのですから、どこを「移転」と数えるかで年が変わるのも無理のないところです。

萩の乱の舞台は、城跡ではありませんでした

明治九年十月二十八日、前原一誠が旧藩校の明倫館に二百人あまりを集めて蜂起しました。萩の乱です。十月三十一日に山口県令・関口隆吉の率いる政府軍と交戦が始まり、十一月二日から三日に萩を中心とした激戦、十一月四日に大阪鎮台兵が山口に到着、十一月六日に鎮定されました。前原は島根県の宇龍港で捕らえられ、十二月三日の判決で斬。

拠点が明倫館であることは辞典類で一致しています。萩城跡が戦場になったという記述は、今回調べた辞典・事典のどこにも見当たりませんでした。市街戦の被害として記録されているのは橋本町あたりの六十八軒の焼失です。

丙辰丸の盟約に、坂本龍馬は出てきません

萩とかかわる幕末の盟約として万延元年の「丙辰丸の盟約」があります。長州藩の軍船・丙辰丸の船上で結ばれたもので、茨城県立歴史館の「成破の盟約書」によれば、水戸藩から西丸帯刀・岩間金平・薗部源吉・越宗太郎、長州藩から桂小五郎・松島剛蔵、仲介に肥前の草場又三。ここに坂本龍馬の名はありません。土佐の脱藩より前の話です。

締結の月は、茨城県立歴史館が万延元年八月、別の資料が七月として食い違っています。

いまの指月公園に残るもの

国史跡「萩城跡」の指定は昭和二十六年六月九日で、以後何度か追加指定されています。毛利輝元が指月山に築いたのは慶長九年から慶長十三年にかけてでした。園内には石切り場の跡、志都岐山神社、花江茶亭があります。

二の丸の入口近くに立つ旧厚狭毛利家萩屋敷長屋は重要文化財です。安政三年の上棟を記す棟札があり、桁行五十一・四メートル、梁間五・〇メートル、一重の入母屋造・本瓦葺で、床面積は二百五十七・二平方メートル。幕末に建てられた建物が、天守のない城跡に残っているという形になります。平成二十七年には城下町とともに世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産になりました。

毛利敬親は明治二年に版籍奉還を申し出て隠居し、明治四年、山口藩庁の内殿で五十三歳で亡くなりました。華族令で公爵を授けられたのは、養嗣子で最後の萩藩主となった毛利元徳です。

萩城の詰の丸と、城下に生まれた志士たち

指月山の詰の丸

指月山には、もともと津和野城主・吉見氏の出城がありました。毛利輝元はこの山を城に取り込み、標高143メートルの山頂に「詰の丸」を置きました。いざというときに立てこもるための郭で、城全体の二十の櫓のうち七つがここにあったとされます。平時の政務は麓の本丸で行われました。

城下の生誕地

萩の城下からは、幕末の長州を動かした人物が次々と生まれました。

  • 吉田松陰:城下の東、松本村の生まれ(天保元年)
  • 木戸孝允:城下の呉服町の生まれ(天保四年)
  • 高杉晋作:菊屋横丁の生まれ(天保十年)
  • 久坂玄瑞:平安古本町の生まれ(天保十一年)

いずれも萩の町の中を歩いて回れる距離にあります。平成十六年には、城下の入口にあった北の総門が復元されました。

場所・アクセス・地図

山口県萩市堀内

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