秋月藩(福岡藩支藩)
藩の歩み
秋月藩は福岡藩の支藩で、元和九年(1623年)黒田長政の三男「黒田長興」が福岡藩より五万石を分与され立藩しました。藩庁は秋月陣屋(福岡県朝倉市)です。無城大名ではあるが城主格が与えられていました。4代藩主長貞の息女「春姫」は高鍋藩秋月氏に嫁ぎ、その次男は名君として名高い米沢藩主「上杉鷹山」です。

幕末の藩主「黒田長徳」は、元治元年(1864年)四月六日、従五位下甲斐守に叙任します。慶応元年(1865年)には宗藩の福岡藩に代わって長崎警備を務めています。そして慶応四年(1868年)閏四月十日、新政府の要請に応じて上洛し帰順しました。
明治四年(1871年)の廃藩置県により秋月県となり、その後、福岡県に編入されました。
本家・福岡藩との関係
秋月藩は、筑前の福岡藩/黒田家四十三万三千石の支藩です。黒田家の分家が五万石を領しました。
戊辰戦争では、秋月藩は宗家の福岡藩とともに新政府軍に加わりました。最後の藩主は黒田長徳です。維新後の秋月では、旧士族による反乱「秋月の乱」も起きています。大藩・福岡を支えた黒田一門の支藩でした。
宗家に代わって長崎を守った支藩
秋月藩は元和九年(1623)、黒田長政の遺命により三男の黒田長興が兄の忠之から五万石を分与されて成立しました。福岡藩の支藩ですが、幕府から直接朱印状を得た独立した藩で、無城ながら城主格を与えられています。
幕末の藩主は十二代黒田長徳(ながのり)です。文久二年(1862)、兄の長義が世継ぎのないまま没したため、急いで養嗣子となって家督を継ぎました。
この長徳が、慶応元年(1865)に宗家の福岡藩に代わって長崎警備を務めています。同じ年、福岡藩は乙丑の獄で揺れていました。加藤司書ら七名が切腹、月形洗蔵ら十四名が斬首、野村望東尼ら十五名が流罪という、勤王派の大弾圧です。逮捕者は百四十名を超えました。宗家が内部の粛清で身動きが取れないあいだ、支藩が長崎の守りを引き受けたという構図になります。なお秋月藩の内部で同様の弾圧があったかは確認できません。
戊辰戦争では宗家とともに新政府軍に加わったとされますが、北越や東北への具体的な出兵先はわかっていません。
秋月の乱—城下町の終わり
秋月藩の物語は、廃藩で終わりません。明治九年(1876)の秋月の乱があります。
十月二十四日に熊本で神風連の乱が起きると、その三日後の十月二十七日、今村百八郎ら約四百名の旧秋月藩士が挙兵しました。宮崎車之助、磯淳、益田静方らが加わっています。
一行は同志の決起を期待して豊津へ向かい、二十九日に到着します。しかし豊津の士族は動きませんでした。かわりに現れたのが乃木希典の率いる小倉鎮台で、秋月勢は十七名の死者を出して退きます。三十一日に解散、磯・宮崎・土岐ら七士が自刃しました。今村は十一月に捕らえられ、十二月三日に福岡臨時裁判所で判決を受けて即日斬首。およそ百五十名が懲役や除族に処されています。
朝倉市はこの乱を「城下町としての機能の終焉」と位置づけています。幕末の余熱が、明治九年の秋月で燃え尽きたわけです。
葛と、筑前の小京都
秋月の名産である秋月葛には、意外なつながりがあります。八代藩主黒田長舒(ながのぶ)が殖産興業として奨励したものですが、長舒は米沢藩の上杉鷹山の甥にあたり、叔父の改革に倣ったと伝えられます。山がちで田の少ない秋月に合う産業として葛粉づくりを選び、やがて幕府への献上品になりました。米沢の改革が九州の支藩に及んでいたことになります。
藩校は稽古館。天明五年(1785)の設立で、長舒が藩主となった年にあたります。
秋月城跡は福岡県の指定史跡です。黒門はもと大手門で、明治のはじめに初代藩主長興を祀る垂裕神社の参道へ移されました。中世の古処山城の搦手門だったという伝承もあり、由来には諸説あります。長屋門は裏門で、当時の建物のうち唯一もとの位置に残るものです。城下町は平成十年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれ、筑前の小京都と呼ばれています。長徳は明治十七年に子爵となりました。
秋月藩をもっと詳しく
黒田家が来る前の秋月
秋月は、もともと戦国大名・秋月氏の本拠地でした。秋月氏は豊臣秀吉の九州平定に抵抗したため、取りつぶしは免れたものの日向国の串間へ移され、のちに高鍋藩の藩主となります。その後、秋月の地は秀吉の命で小早川隆景が治め、関ヶ原の戦いの恩賞として黒田長政が筑前を与えられると黒田家の領地になりました。のちに秋月藩四代藩主・黒田長貞の娘・春姫が嫁いだ高鍋藩の秋月家は、この旧領主の家にあたります。
初代藩主・黒田長興と本家との確執
黒田長興は慶長十五年(1610年)三月十五日、福岡城内で黒田長政の三男として生まれました。母は徳川家康の養女・栄姫(保科正直の娘)です。父の遺言で五万石を分けられ、寛永元年(1624年)七月に秋月へ入り、梅園にあった黒田直之の屋敷を増改築して住まいとしました。
寛永二年(1625年)、長興が三代将軍・徳川家光にお目見えするため江戸へ向かおうとすると、兄で福岡藩主の黒田忠之との確執から、本家の家老たちに妨げられました。母の栄姫や小倉藩主・細川忠興の助けで、ようやくお目見えを果たしたといいます。父の長政は一時、忠之ではなく長興を跡継ぎにと考えたものの、重臣の栗山利章の反対で実現しなかったとも伝わり、兄弟の不仲の原因とされます。本家と和解したのは、忠之の跡を継いだ光之の代でした。
長興は寛永十四年(1637年)の島原の乱に出陣して手柄を立て、長崎警備も務めました。筑後川の支流沿いの新田開発や領内の交通の整備を進めて藩の仕組みを固め、母の菩提を弔うために大涼寺を開いています。寛文五年(1665年)に江戸の藩邸で五十六歳で亡くなり、安政六年(1859年)に「垂裕明神」の神号を受けて垂裕神社に祀られました。
領地のようす
寛永年間には、福岡藩との間で下座郡の一部と穂波郡・夜須郡の一部の領地の交換が行われましたが、幕府の承認を得られなかったため「御内證替(ごないしょうがえ)」とも呼ばれます。また、秋月陣屋のすぐ近くにある交通の要所・甘木宿を福岡藩が手放さなかったため、甘木のあたりに本藩の領地が食い込むいびつな形となり、収入の面でも藩の財政は苦しみました。
同じ時代の大きな出来事:臼井亘理の暗殺と「最後の仇討ち」
幕末の秋月藩でも、本藩の福岡藩と同じく開明派と攘夷派の対立がありました。慶応四年(1868年)五月二十三日の深夜、開明派の家老・臼井亘理とその妻・清子が、攘夷派の「干城隊」の者に寝込みを襲われて殺されます。当時十一歳だった長男の臼井六郎は仇を討つことを誓い、のちに仇が干城隊士の山本克己(のちの一瀬直久)だと知りました。
明治十三年(1880年)十二月十七日、六郎は東京・京橋にあった旧秋月藩主・黒田家の屋敷で一瀬を討ち、自首しました。すでに仇討ちは法で禁じられており、翌年九月二十二日に終身禁獄の判決を受けます。模範囚として過ごした六郎は、明治二十二年(1889年)の大日本帝国憲法の公布に伴う大赦令によって、明治二十四年(1891年)九月二十二日に満期(十年)として釈放されました。「日本で最後の仇討ち」として知られる出来事です。
今に残る家臣の屋敷
秋月には藩士の屋敷も残っています。筆頭家老・田代家の屋敷は、期間を決めて公開されています。馬廻り組の上級武士だった戸波家からは、明治九年(1876年)の秋月の乱で江川谷で自刃した戸波半九郎が出ており、その屋敷はのちに旧藩主の黒田家に譲られて秋月の別邸となりました。同じく上級武士だった久野家の屋敷は、茅葺きの母屋や離れ座敷、庭園が残り、一般に公開されています。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、五万石のこの藩はおよそ千百八十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「秋月藩」「黒田長興」「臼井六郎」



