臼杵藩の歩み
臼杵には豊臣秀吉の家臣「太田一吉」が六万五千石で入封していました。慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で石田三成との関係上西軍に与したために、改易されました。その後、「稲葉貞通」が「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍に寝返り、美濃の郡上八幡城の戦いなどで功を挙げたことで、美濃国郡上八幡四万石から臼杵五万石に加増移封されました。貞通は「斎藤道三」や「織田信長」に仕えた西美濃三人衆の一人「稲葉良通(一鉄)」の子です。

弘化元年(1844年)、臼杵藩では農民による狩猟を中心とした鉄砲組を編成し、農兵隊「川登鉄炮卒」が組織されました。幕末の動乱期では、土佐藩の「山内容堂」と縁戚にあったことから佐幕派の立場を貫き、隣藩の岡藩から尊皇攘夷運動の誘いをもちかけられたときも拒絶しました。
慶応三年(1867年)十月、大政奉還を受けて朝廷から上洛を命じられたがなかなか応じようとはせず、翌年の三月二十日になってようやく上洛しています。豊後の諸藩の中では最も遅い上洛でした。
幕末では中立的立場をとった臼杵藩だが、明治二年(1869年)六月、豊後諸藩の中で最も早く「版籍奉還」を行い、最後の藩主「稲葉久通」は臼杵藩知事に任命されました。明治四年(1871年)の「廃藩置県」により臼杵県となり、その後、大分県に編入されました。
養子として継いだ久通と家臣・荘田平五郎
久通は先代観通の早世を受け、その姉妹を娶って家督を継ぎました。維新後は家臣・荘田平五郎の勧めで慶應義塾に学び、東京移住に際しては旧物産会所の権利や資金約72万円を旧藩士族の授産事業に寄付するなど、藩士の生活再建に尽力しました。なお荘田平五郎はのちに三菱で活躍する実業家として知られています。
豊後でいちばん遅い上洛と、いちばん早い版籍奉還
臼杵藩の幕末は、動かないことで目立ちます。慶応三年十月に朝廷から上洛を命じられながら応じず、実際に上洛したのは翌慶応四年三月二十日で、豊後の諸藩のなかでもっとも遅いものでした。稲葉久通が土佐の山内容堂と縁戚にあったことから佐幕の立場をとり、隣の岡藩からの尊皇攘夷の誘いも断っています。ところが版籍奉還は逆で、明治二年、豊後の諸藩に先駆けていちばん早く行いました。なお奥羽や箱館への出兵の記録は見あたりません。出兵しなかったと明記した資料も見あたりませんので、ここは分からないままにしておきます。
稲葉久通
稲葉久通は天保十四年二月七日の生まれで、文久二年、先代の観通が若くして亡くなったため家督を継ぎました。官位は従五位下右京亮です。明治五年五月に慶應義塾へ入学しており、臼杵を発つときには、残る士族の授産のために多額を下付しています。明治十七年七月八日に子爵、明治二十六年七月二十三日に東京で亡くなりました。廃藩置県では明治四年七月に臼杵県となり、十一月に大分県へ入っています。
淀の稲葉家とは、一鉄の代で分かれています
臼杵の稲葉家と淀藩の稲葉家は、どちらも稲葉一鉄から出ていますが、系統が違います。臼杵は一鉄の子である貞通の系統で、貞通は関ヶ原で西軍から東軍へ転じ、その功で豊後臼杵へ移されました。この経緯があるので外様です。いっぽう淀の稲葉家は、一鉄の庶長子である重通の分家を、尾張の林氏から養子に入った正成が継いだもので、正成の妻が徳川家光の乳母となった春日局であったことから譜代として栄えました。同じ祖から出て、外様と譜代に分かれたことになります。臼杵の稲葉家は貞通から久通まで十五代続きました。
天保の改革の中心は、藩校でした
天保のはじめごろ、臼杵藩の借財は三十万両に達していました。天保二年に村瀬通吉を御勝手方総元締に任じて改革が始まり、天保十三年に藩校の学古館が創られます。のちの集成館です。東京大学史料編纂所の大分県下の史料調査報告は、臼杵藩の天保改革の中心がこの藩校の創設であったと位置づけています。天保十五年には農民による川登鉄炮卒も組まれました。なお臼杵藩と蘭学や医学との結びつきを示す資料は、臼杵市や大分県、史料編纂所のいずれにも見あたりませんでした。
城が国の史跡になったのは、令和七年です
臼杵城はキリシタン大名の大友宗麟が築いた城で、江戸時代は稲葉家の居城でした。明治六年に城内の建物が一部を残して払い下げられ、撤去されています。いま残っているのは二の丸の畳櫓と本丸の卯寅口門脇櫓で、畳櫓は正保年間に建てられたのが始まりとされます。大門櫓は平成十三年に、明治の写真と現存する二基の櫓を手がかりとして復元されました。もとの建物は稲葉家が入ってまもない十七世紀の初めに建てられ、宝暦十三年の大火で焼けて五年後に再建され、明治の初めに取り壊されたものです。大分県の史跡となったのは昭和四十一年、国の史跡に指定されたのは令和七年三月十日の官報告示によるもので、中世から近世までの城の移り変わりが分かる点が評価されました。
幕末に十年かけて建った三重塔があります
臼杵に残る建物で、幕末そのものの時期に建てられたものがあります。龍原寺の三重塔で、嘉永元年に着工し、十年をかけて安政五年に完成しました。臼杵が生んだ名匠と伝えられる高橋団内が設計し、弟子の坂本荘右衛門が施工しています。もう一つ、稲葉家下屋敷は明治三十五年の建築で、廃藩置県で東京へ移った旧藩主の稲葉家が臼杵に滞在するために建てた家です。国の登録有形文化財になっています。
臼杵藩をもっと詳しく
稲葉家が来る前の臼杵
鎌倉時代から戦国時代まで、豊後は大友氏の国でした。キリシタン大名の大友宗麟は、薩摩の島津氏が攻め込んだ豊薩合戦のとき、臼杵城の前身である丹生島城に立てこもって持ちこたえ、豊臣秀吉の九州征伐で危機を脱しています。しかし宗麟の子・大友義統は文禄の役でのふるまいを理由に秀吉の怒りを買って改易され、豊後は豊臣家臣の小大名たちに分けられました。臼杵の太田一吉の六万五千石は、その中では大きな領地でした。
先祖の戦国武将—稲葉一鉄と稲葉貞通
一鉄の祖父・稲葉通貞は、伊予の名族・河野氏の一族で、美濃に流れてきて土豪になったとされます。稲葉良通(一鉄)は永正十二年(1515年)の生まれで、もとは寺で修行していましたが、父と五人の兄がそろって戦死したため還俗して家を継ぎました。斎藤道三・義龍・龍興に仕え、安藤守就・氏家直元とともに「西美濃三人衆」と呼ばれ、永禄十年(1567年)に三人衆そろって織田信長に味方しました。その後は元亀元年(1570年)の近江・守山での一揆勢との戦い、長篠の戦い、越前一向一揆攻めなど各地で戦っています。薬の調合にも通じ、自分の腫れ物や子どもの天然痘を治した記録を書き残したとされます。春日局の養祖父にもあたります。
臼杵藩の初代・稲葉貞通は一鉄の次男(正室の子で嫡男)として天文十五年(1546年)に生まれ、最初の正室は斎藤道三の娘でした。天正十年(1582年)の本能寺の変のときは京都にいて、急いで美濃へ逃げ帰ったといいます。天正十六年(1588年)には美濃の郡上八幡城に移って大改修を行い、小田原征伐には千二百余りの兵を率いて加わりました。関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍として尾張の犬山城を守りましたが東軍に転じ、戦いの後は近江の水口岡山城の攻略でも手柄をあげました。こうして豊後の海部郡・大野郡・大分郡のうちで五万六十石余りを与えられ、臼杵城主となりましたが、三年後の慶長八年(1603年)に五十七歳で亡くなっています。
藩政のようす
延宝元年(1673年)に五代藩主となった稲葉景通のころ、城下町が整えられ、藩の仕組みも固まりました。江戸時代の中ごろからは財政が苦しくなり、天保の改革では、隠居していた前藩主の稲葉雍通が後見として家老の村瀬通吉に改革を任せました。きびしい倹約と新田開発に加え、「御手段」と呼ばれる古い借金の帳消しや返済の先延ばしの交渉など、かなり強引な方法もとられ、財政はかなり持ち直したとされます。
藩主・尊通より後は、藩主が若くして亡くなったり跡継ぎがいなかったりが続き、死後に養子を届け出る「末期養子」など、綱渡りのような代替わりが続きました。また泰通と弘通のあいだの「副通」は、将軍に会う前に亡くなったため、いなかったことにされたと伝わります。
領地のようす
臼杵藩の領地は豊後国の三つの郡にまたがっていました。海部郡のうち九十七か村、大分郡のうち三十九か村、大野郡のうち百四十三か村です(『旧高旧領取調帳』では海部郡が一町百十四村、大分郡が四十六村、大野郡が百五十八村)。臼杵湾に面した城下町から、内陸の大野郡の山あいの村まで広がっていたことになります。
藩主家の子孫・明治以降
稲葉家は明治二年(1869年)に華族となり、明治十七年(1884年)に子爵となりました。東京へ移った後も、大正七年(1918年)の米騒動の際には臼杵へ寄付金を送るなど、旧領地とのつながりを持ち続けました。臼杵藩の出身者には、のちに日本銀行総裁や貴族院議員を務めた山本達雄がいます。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、五万石のこの藩はおよそ千百八十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「臼杵藩」「稲葉良通」「稲葉貞通」



