【藩名】
千束藩(小倉藩支藩)
【説明】
千束藩は小倉藩の支藩で当初は小倉新田藩と称しました。寛文7年(1667年)、小倉藩2代藩主「小笠原忠雄」の藩主就任時、弟の真方が1万石を領内に分与されて立藩しました。藩主は参勤交代を行わない江戸定府の大名でした。明治2年(1869年)に陣屋を千束(豊前市)へ構え千束藩と改称しました。
文久元年(1861年)7月9日、大番頭に就任し文久3年(1863年)4月19日には大坂の警備を任じられたが、すぐに辞任します。慶応元年(1865年)には本家小倉藩主「小笠原忠幹」が早世し、跡を継いだ忠忱が幼少であったため、貞正がその後見人として補佐を務めました。同年11月9日、長州征討に際し、幕府から500俵を賜り本藩とともに長州藩と戦うが敗北を重ね、熊本藩領に避難しました。
慶応2年(1866年)10月5日、熊本藩の「長岡護美」に書状を送り長州藩との休戦の仲介や兵の援助を願いました。明治2年(1869年)6月、藩庁を上毛郡千束に移したため千束藩となります。明治4年(1871年)、廃藩置県により千束県となり、小倉県を経て福岡県に編入されました。
目次
本家・小倉藩との関係
千束藩は、豊前の小倉藩(小笠原家)の支藩です。小笠原家の分家が一万石を領しました。
幕末、本家の小倉藩は長州藩と国境を接し、第二次長州征伐で激しく戦いました。千束藩も宗家とともに長州と戦いますが、高杉晋作らの奇兵隊に敗れ、遠く肥後熊本藩の領内まで退くほどの惨敗を喫します。最後の藩主は小笠原貞正です。長州との最前線に立たされた小倉の支藩でした。
【場所・アクセス・地図】

