千束藩(小倉藩支藩)
藩の歩み
千束藩は小倉藩の支藩で当初は小倉新田藩と称しました。小倉藩2代藩主「小笠原忠雄」の弟・真方が、上毛郡内の一万石を分け与えられて立藩しました。その年は、忠雄が藩主となった寛文七年(1667年)とする資料と、寛文十一年(1671年)九月二十三日とする資料があります。藩主は江戸定府の大名だったとする資料もありますが、初代の真方は小倉城下の篠崎の館に住んで参勤交代で行き来し、2代の貞通も小倉で亡くなっています。明治二年(1869年)に陣屋を千束(豊前市)へ構え千束藩と改称しました。
文久元年(1861年)七月九日、藩主の貞正は大番頭に就任し、文久三年(1863年)四月十九日には大坂の警備を任じられましたが、同年九月四日に辞任します。慶応元年(1865年)には本家小倉藩主「小笠原忠幹」が早世し、跡を継いだ忠忱が幼少であったため、貞正がその後見人として補佐を務めました。同年十一月九日、長州征討に際し、幕府から500俵を賜りました。本藩とともに長州藩と戦いましたが、敗北を重ね、熊本藩領に避難しました。
慶応二年(1866年)十月五日、熊本藩の「長岡護美」に書状を送り長州藩との休戦の仲介や兵の援助を願いました。明治四年(1871年)、廃藩置県により千束県となり、小倉県を経て福岡県に編入されました。
本家・小倉藩との関係
千束藩は、豊前の小倉藩(小笠原家)の支藩です。小笠原家の分家が一万石を領しました。
幕末、本家の小倉藩は長州藩と国境を接し、第二次長州征伐で激しく戦いました。千束藩も宗家とともに長州と戦いますが、高杉晋作らの奇兵隊に敗れ、遠く肥後熊本藩の領内まで退くほどの惨敗を喫します。最後の藩主は小笠原貞正です。長州との最前線に立たされた小倉の支藩でした。
城が完成したのは、廃藩の前の年
千束藩でいちばん変わっているのは、藩庁の建物が明治になってから完成した点です。慶応二年八月に本家の小倉小笠原藩が長州軍との戦に敗れたあと、分家である千束一万石の藩主 貞正は館の建設を始め、明治三年(1870年)十月に完成させて「旭城」と名づけたと伝えられます。廃藩置県はその翌年です。全国で最後に築かれた城とする説明もあります。
場所は豊前市千束で、いまは千束八幡神社(明治十三年建立)が鎮座し、隣に千束小学校があります。境内の東側と南側に当時の石垣と虎口が残り、石垣は千束原古墳の石を使ったものと伝えられます。
小倉城が焼けた日
慶応二年七月三十日、肥後藩をはじめ他の藩が小倉口から引き上げてしまいました。八月一日、小倉藩は自ら小倉城に火を放って田川郡香春へ退きます。藩庁が正式に香春へ移るのは慶応三年三月、京都郡豊津へ移って豊津藩となるのは明治二年十二月二十四日です。
千束藩が熊本藩領へ避難したことは慶応期の記録に見えますが、いつどこへ誰が退いたのかという具体はわかっていません。
最後の藩主と、授爵した人は別
小笠原貞正は天保十一年(1840年)生まれ。安政三年六月六日に九代として家督を継ぎ、明治二年六月二十四日に版籍奉還で千束藩知事、明治四年七月十四日の廃藩置県で免職。明治五年五月に致仕し、明治三十九年(1906年)に六十七歳で亡くなりました。
華族令で子爵になったのは貞正ではなく、小笠原寿長です。明治十七年七月八日の授爵でした。寿長は小笠原貞哲の五女 愛子の入夫で、明治九年五月二十四日に家督を継いでいます。貞正は明治十七年の時点で生きていましたが、すでに隠居していたため授爵者にはなりませんでした。
豊前市の指定文化財では、大庄屋を世襲した矢野家の文書百九十七点(平成十一年六月二十一日指定)が新田藩時代の記録を伝えます。石清水八幡神社は明治初年まで新田藩の祈願所で、領主の社参または代参が慣例でした。
参勤の船旅で溺れた初代と、旗本から来た最後の殿様—千束藩
「篠崎殿」と呼ばれた初代
千束(ちづか)藩は、豊前小倉藩小笠原家の分家で、家格は譜代です。初代の小笠原真方は小倉藩主・小笠原忠真の六男で、領地へは行かず小倉の篠崎館に住んだため「篠崎殿」と呼ばれました。当時の大名評判記『土芥寇讎記』は、本家が乱れているのに分家の領地がよく治まっているのを「不審」と書いています。九代約二百年続き、七代の貞嘉はのちに本家の小倉藩主・小笠原忠嘉になりました。
小豆島沖の遭難
宝永六年(1709年)、真方は参勤交代で帰国する途中、讃岐の小豆島の坂手湾沖で暴風雨に遭い、溺れて亡くなりました。五十八歳でした。九州の大名にとって、参勤交代は瀬戸内海の船旅でもあり、ときに命がけだったことがわかります。
旗本の家から来た最後の藩主・貞正
最後の藩主・小笠原貞正は、天保十一年(1840年)に江戸の鳥越で、安房などに七千石を持つ旗本・小笠原信学の次男として生まれました。安政三年(1856年)に八代貞寧の養子となり、近江守を名のります。幕末には幼い本家当主を後見する立場にもあり、慶応三年(1867年)には本家当主の名で、上毛郡の村を中津藩の村と交換したいと幕府に願い出た文書が残っています(みやこ町歴史民俗博物館蔵)。明治五年(1872年)に養子の貞規へ家督を譲りました。
海で始まり、陸で終わった二百年
初代は瀬戸内の海で命を落とし、最後の殿様は小倉を追われて領地の内陸に新しい陣屋を築く。千束藩の二百年は、海の旅の危うさと、戦に追われた最後の慌ただしさにはさまれています。旗本の家から来た若い殿様が、本家の幼い当主を支えながら幕末を乗り切ったことも、この藩の静かな見どころだと思います。
千束藩をもっと詳しく
小倉で暮らした2代・貞通
初代真方の跡を継いだ2代の貞通は、本家の小倉藩主・小笠原忠雄の三男で、元禄13年(1700年)に叔父の真方の養子となりました。宝永6年(1709年)に真方が小豆島沖で亡くなったため藩主となり、延享4年(1747年)に小倉で亡くなっています。正室とは2年ほどで別れましたが、側室とのあいだに8男7女をもうけました。はじめ次男を跡継ぎとしたものの早世したため、六男の貞顕が3代となりました。初代と2代がともに小倉に暮らしたことは、この藩が本家の城下と深く結びついた分家だったことを物語っています。
若年寄まで務めた4代・貞温
1万石の小さな分家ですが、幕府の役職では本家に負けない働きをした藩主がいます。4代の小笠原貞温は3代貞顕の三男で、天明2年(1782年)に父の隠居を受けて家督を継ぎました。寛政2年(1790年)に大番頭、寛政12年(1800年)に奏者番となり、文化2年(1805年)には西の丸若年寄、文化9年(1812年)には本丸の若年寄に進みました。若年寄は老中に次ぐ重職で、旗本や御家人を束ねる立場です。貞温は文政5年(1822年)に57歳で亡くなるまで、江戸で幕政の一角を担いました。
そのあとを継いだ5代貞哲も文政6年(1823年)から天保7年(1836年)まで大番頭を務めています。一方、領地では天保9年(1838年)に5か村の農民が村を捨てて逃げる逃散騒動が起きており、江戸での役職と領内の暮らしとのあいだには、小藩なりの苦しさがあったことがうかがえます。
兄弟で受け渡した藩主の座と、本家の相続
幕末の千束藩は、5代貞哲の息子たちが次々に藩主となりました。次男の貞謙が天保14年(1843年)に継ぎましたが、嘉永4年(1851年)に25歳で亡くなり、四男の貞嘉が末期養子として7代になります。ところが嘉永7年(1854年)、貞嘉は本家・小倉藩の藩主小笠原忠徴の跡継ぎに選ばれて忠嘉と名を改め、千束藩は三男の貞寧が8代として引き継ぎました。分家が本家に跡継ぎを出す、支藩ならではの役目を果たしたことになります。
小倉藩主となった忠嘉は殖産興業を進め、薬を領民に無料で配るなどの施策も行いましたが、万延元年(1860年)に22歳で亡くなります。小倉藩は一族の安志藩から貞幹(のちの忠幹)を迎えました。この忠幹も慶応元年(1865年)に早世し、幼い当主の後見役が千束藩の貞正に回ってきます。一方の貞寧も安政3年(1856年)6月に隠居して旗本家出身の貞正を養子に迎え、直後の8月に26歳で亡くなりました。若い藩主の早世が続いたことが、貞正が幕末の難局を一身に背負う下地になったといえます。
子爵家のその後
明治17年(1884年)に子爵となった小笠原寿長は、肥後の宇土藩主・細川行芬の九男として安政元年(1854年)に生まれた人です。千束藩の血筋とは、5代貞哲の娘・愛子と結婚して家を継ぐ形でつながりました。寿長は司法省への出仕を皮切りに、大蔵省や陸軍省の役人、熊本・福岡・宮崎の各県の警部、裁判所の書記などを務め、明治24年(1891年)には貴族院の子爵議員に選ばれて2期在任しました。明治32年(1899年)には東京市会議員にも当選しています。
明治35年(1902年)に寿長は小笠原家と離縁し、子の恒が子爵を継ぎました。恒は陸軍の砲兵中佐まで進んでいます。他家から来た婿養子が近代の官僚や議員として家を支えたことは、華族となった小藩の家の歩みのひとつの形を示しています。
1万石の兵力の目安
慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定(案)では、1万石あたり235人を出すのが目安とされます。千束藩の1万石にそのまま当てはめると、およそ240人です。ただしこの規定は案のまま発布されなかったとする説もあり、実際の動員数を示すものではありません。15万石の本家と比べれば、第二次長州征討で千束藩が出せる兵の数には大きな限りがあったことがわかります。



