土佐新田藩(土佐藩支藩)/山内家1万3千石:山内豊誠 本藩とともに戊辰戦争を戦ったため恩賞を下賜された土佐新田藩

土佐新田藩(土佐藩支藩) 山内家1万3千石 最後の藩主 山内豊誠

土佐新田藩(土佐藩支藩)

目次

藩の歩み

土佐新田藩は土佐藩の支藩で、江戸時代後期の安永九年(1780年)に中村藩系の「山内豊産」が一万三千石を本藩より分与され立藩しました。藩主は参勤交代を行わない定府大名でした。

戊辰戦争では本藩同様に新政府側として武功を挙げたため、5000両の恩賞を与えられました。明治二年、版籍奉還により最後の藩主「山内豊誠」が藩知事となります。明治三年(1870年)九月二十五日、廃藩置県に先立ち土佐新田藩は本藩に編入されて廃藩となります。

代々江戸麻布古川町の上屋敷に居住したことから麻布山内家と称され、江戸下屋敷は三田寺町にありました。

本家・土佐藩との関係

土佐新田藩は、土佐藩(山内家)の支藩です。安永九年(1780)、かつて土佐中村藩を治めた山内家分家の子孫・山内豊産が、本藩から一万三千石を分与されて立藩しました。参勤交代を行わない江戸定府の大名で、代々江戸・麻布古川町の上屋敷に暮らし、領地は本藩の石高の内から支給される内分の形をとりました。

幕末の本家・土佐藩は、坂本龍馬や後藤象二郎を輩出し、大政奉還から討幕・新政府樹立の中心を担った雄藩です。土佐新田藩もその宗家とともに戊辰戦争を戦い、のちに恩賞を下賜されました。藩は明治三年(1870)に本藩土佐藩へ編入され、六代九十年の歴史を閉じています。

江戸で自害した藩主—慶応四年正月の板挟み

土佐新田藩は土佐藩から分かれた一万三千石の支藩です。よく「領地を持たない蔵米取りの藩」と説明されますが、正確には少し違います。上総・下野・常陸に三千石の領地があり、それに本家から渡される内廩米一万俵を加えて一万三千石とされていました。領地と蔵米の組み合わせだったわけです。城も陣屋もなく、参勤交代もしない定府の大名で、代々江戸麻布古川町の上屋敷に住んだため「麻布山内家」とも呼ばれます。

五代・山内豊福の死

この藩のことをどこかで語り継ぐとすれば、慶応四年(1868年)正月の出来事になるでしょう。五代藩主の山内豊福は、安政三年(1856年)に養父の隠居を受けて家督を継ぎ、本家の山内豊信(容堂)を助けて新田藩の軍制改革にあたった人です。

その豊福は、鳥羽伏見の戦いのあと幕府から登城を命じられました。土佐の本家は新政府側です。幕府の命に従えば本家に背き、本家に従えば幕府に背く—その板挟みのなかで、慶応四年正月、江戸の屋敷で継室の典子とともに自害しました。三十三歳ほどでした。日付は正月十三日とする資料と十四日とする資料があります。

支藩の当主が、江戸と京都のあいだで身の処し方を失って死ぬ。幕末の藩の記録には、戦って死んだ人よりも、こうして立場に追い詰められて死んだ人の話がいくつも出てきます。

あとを継いだ豊誠

跡を継いだのは六代の山内豊誠です。明治元年(1868年)六月に豊福の養子となり、九月に襲封しました。戊辰戦争では新政府側として働き、五千両の恩賞を受けています。明治三年(1870年)九月に本藩へ編入されて藩は消え、廃藩置県を待たずに姿を消しました。豊誠は明治十七年(1884年)七月に子爵を授けられ、明治二十三年(1890年)から貴族院議員を務め、明治四十一年(1908年)に亡くなっています。

この藩には城も陣屋もないため、たどれる城跡がありません。麻布の屋敷の跡がどうなっているかも確かめられていません。藩校の記録も見あたりません。残っているのは、江戸の屋敷で起きた一つの死の記録です。

「中村藩系」とは—土佐中村の山内家

土佐新田藩の藩祖が「中村藩系」とされるのは、土佐西部の中村(いまの高知県四万十市)にあった山内家の分家(中村藩)の血筋を引くためです。中村の山内家のはじまりは、山内一豊の弟・康豊にさかのぼります。一豊が関ヶ原の功で土佐一国を与えられると、康豊は幡多郡の中村を任されました。一豊には跡を継ぐ男子がいなかったため、康豊の子・忠義が一豊の養子となり、二代土佐藩主となっています。土佐藩の歴代藩主は、じつはこの康豊の血筋でした。

その後、中村には三万石の支藩が置かれましたが、元禄二年(1689)、藩主の山内豊明が将軍綱吉から命じられた若年寄の役を病を理由に辞したことで綱吉の怒りを買い、改易されます。土佐新田藩は、こうして一度途絶えた中村の家筋が、九十年余りのちに一万三千石の大名として家名を取り戻したものと見ることができます。

本家の藩主を出した分家

土佐の山内家では、本家に跡継ぎがいないとき、分家から藩主を迎えることがたびたびありました。幕末の山内容堂(豊信)も、もとは南屋敷と呼ばれた分家の出身で、十三代・十四代の藩主が相次いで亡くなったあとに十五代藩主となった人です。土佐新田藩の五代・豊福が容堂を助けて軍制改革にあたったのも、こうした分家どうしの近い関係があってのことでした。

麻布山内家と、夫妻の自刃

旗本から大名へ

藩祖の山内豊産は、土佐中村藩の嫡子だった山内豊成の四男で、叔父の旗本・山内豊清(麻布山内家、3千石)の養子になりました。安永8年(1779)に本家から大名への格上げを打診され、天明元年(1781)に従五位下・遠江守となったとされます。「高知新田藩」とも呼ばれます。

秋月藩主の子・豊福

5代の豊福は天保7年(1836)生まれで、実父は筑前秋月藩主の黒田長元です。長元は土佐藩主山内豊策の五男にあたるので、豊福は山内家の血を引いています。豊福は嘉永6年(1853)に養子となり、安政3年(1856)に従五位下・遠江守となりました。

夫妻の死と伏せられた事実

鳥羽・伏見の戦いの後、豊福は妻の典子とともに自刃しました。典子は松平信宝の娘で、享年28です。家臣は豊福の死を伏せて本藩の指示を仰ぎ、知らせを受けた山内容堂は豊福の遺言どおり豊誠を養子にするよう願い出たとされます。夫妻の死は「病死」として公表されました。6代の豊誠は明治天皇の次侍従を務め、のちに判事となっています。

考察:本家と幕府のはざまで

本家の土佐藩が新政府の中心にいる一方、江戸に暮らす新田藩主は幕府への恩義を捨てきれなかったと考えられます。豊福夫妻の死は、本家と分家の立場の違いが生んだ悲劇でした。

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