福井城は福井県福井市にあった平城で現在も城の一部が残されています。
江戸時代には福井藩越前松平家の城下町として栄えました。

織田信長が越前の守護職「朝倉義景」を滅ぼしたあと、明智光秀に北ノ庄城を任せました。しかし、当時は城というよりは砦のようなものだったと考えられています。
その後、天正三年(1575年)に織田家重臣の「柴田勝家」が越前国を与えられ「北ノ庄城」を大改修しました。天正十一年(1583年)に羽柴秀吉との戦い「賤ヶ岳の戦い」に敗れた勝家は妻のお市と共に自刃して果てました。

勝家が滅びるとこの城に秀吉子飼いの「青木一矩」が城主に任命されました。秀吉が死去し慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで石田三成が破れ、続いて大坂冬の陣・夏の陣にて豊臣秀頼が滅ぼされると天下は徳川家康のものとなりました。
家康は次男である「結城秀康」に北ノ庄城六十八万石を与え北陸の抑えとしました。この時、天下普請により城は大々的に改修され6年の歳月をかけて城は完成します。5重の水堀に囲まれた本丸には4重5階の天守が建てられていたといいます。

寛永元年(1624年)に福井藩3代藩主「松平忠昌」により、北ノ庄城は現在の「福井城」へと変名されました。その後も代々福井松平家がこの地を治め幕末を迎えています。なお、幕末の藩主「松平慶永」は混迷する幕府の主要な職務に就き名君として有名です。

現在の福井城跡は曲輪、石垣、堀、井戸などの遺構が残されており公園としても整備されています。
県庁と県警本部が建っている城跡
福井城の本丸跡には、いま福井県庁・福井県議会・福井県警察本部が建っています。城の中心部がそのまま県政の中心になっている例は全国でも珍しく、本丸御殿跡へは南の御本城橋を渡って入ります。
石垣と堀は本丸のまわりの一部が残るだけですが、その石は足羽山で採れる笏谷石です。天守や櫓の瓦、用水や暗渠、礎石、土塀の腰板にも笏谷石が使われていました。天守台は切込みはぎで積まれています。
なお福井城址は、福井市の史跡一覧二十五件に入っておらず、国・県・市いずれの指定もわかっていません。日本遺産「福井・勝山 石がたり」の構成文化財にはなっています。
「福井」という名の出どころ
本丸の天守台のそばに「福の井」という井戸があります。これが地名の由来という説があるのですが、福井県の公式資料は慎重です。実際には寛永元年(1624年)、三代藩主 松平忠昌が「北ノ庄」の名は敗北につながるとして「福居」に改め、それが1700年ごろに「福井」になったと考えられる、としています。
ただし安永四年(1775年)の城下絵図には、天守台に「福井」と記された井戸が描かれています。井戸が地名になったのか、地名が井戸の名になったのか、順序のほうが問題になっているわけです。福の井は口径約一・六メートル、深さ約五・一メートル、水深約二・一メートル。平成二十九年三月の整備で、地震前の規模に復元されました。
天守は一度焼けたきり
天守は四重五階の望楼型で、高さは約三十メートル(福井県)、天守台込みで約三十七メートル(福井市の観光公式)と資料で違います。寛文九年(1669年)の大火で焼け、以後は再建されませんでした。代わりに坤櫓(高さ約十六メートル)と巽櫓が、およそ二百年にわたって城のシンボルになります。
昭和二十三年(1948年)の福井地震では石垣が一部崩れました。福井県のパンフレットは、その石垣は1983年に積み直された、としています。「震災の跡がそのまま残る」と書かれることがありますが、県の公式は積み直しと記しています。
御廊下橋は平成二十年三月に、山里口御門は平成三十年三月に復元されました。藩主は御廊下橋を渡り、山里口御門を通って本丸へ向かっていました。
龍馬が最後に訪ねた城下
福井市の観光公式は、坂本龍馬がこの城下を訪れたのは「少なくとも二度」としています。文久三年(1863年)に勝海舟の使いとして神戸海軍操練所の資金調達のため松平春嶽を訪ね、慶応三年(1867年)に山内容堂の書状を渡すため再訪しました。
問題はその二度目です。慶応三年十一月、龍馬は莨屋旅館で旧知の三岡八郎(由利公正)と再会し、新政府への参画を求めて朝まで語り合ったとされます。福井市はこれを「龍馬が亡くなる約二週間前」と記しています。京都で斬られる直前に、この城下にいたことになります。
その三岡八郎は、横井小楠の学問に影響を受けて藩財政を研究し、長崎に越前の蔵屋敷を建ててオランダ商館と生糸の販売契約を結ぶなど販路を開き、藩財政を黒字に転じさせた人です。維新後は新政府の参与として財政を担当し、五箇条御誓文の草案を起草、明治四年には初代東京府知事になりました。
横井小楠が福井藩の政治顧問に招かれたのは安政五年(1858年)。『国是三論』は万延元年(1860年)の論策で、天=富国論・地=強兵論・人=士道の三部構成です。文久二年に春嶽が政事総裁職に就いた時期に書いた『国是七条』とは別の文書になります。
城下に残るもの
左内公園(福井市左内町)には、安政の大獄で二十六歳で命を落とした橋本左内とその両親の墓があり、左内の立像が立っています。内堀公園には横井小楠・三岡八郎像。莨屋旅館跡はいま仕出し料理店になっており、由利公正宅跡の近くの足羽川遊歩道には龍馬の歌碑があります。
城の北に隣接する養浩館(旧御泉水屋敷)庭園は国の名勝で、昭和五十七年七月二十六日の指定。同じ一帯に福井市立郷土歴史博物館があります。
福井城の天守と、福井から出た人びと
寛文九年に焼けた天守
結城秀康が築いた福井城の天守は、四重五階の大きなものでしたが、寛文九年(1669年)の大火で焼け、その後は再建されませんでした。代わりに、本丸の隅櫓が天守の役目を担ったと考えられています。石垣には、地元で採れる笏谷石が使われています。
春嶽を支えた中根雪江
松平春嶽の側近として藩政と国事を支えたのが、中根雪江です。春嶽が安政の大獄で隠居させられたのちも仕え続け、のちに春嶽の言行を記録して後世に残しました。橋本左内、三岡八郎(由利公正)、そして熊本から招かれた横井小楠とともに、春嶽の時代の福井藩を動かした一人です。
瑞源寺に移された御殿
明治以降、福井城の建物はほとんど取り壊されましたが、本丸御殿の一部が市内の瑞源寺に移されて残っています。本丸の跡にはいま福井県庁が建ち、石垣と内堀、天守台が往時の姿をとどめています。御廊下橋や山里口御門も復元されました。
場所・アクセス・地図
福井県福井市大手



