【藩名】
信濃中村藩
【説明】
慶長19年(1614年)の「大坂の陣」で、「岩城貞隆」は本多正信の軍に属して功績を挙げたことから、元和2年(1616年)7月、「松平忠輝」が改易された後、その旧領のうちから1万石を与えられて信濃中村藩を立藩しました。
元和6年(1620年)10月に貞隆は死去し、後を長男の「岩城吉隆」が継ぎました。吉隆は元和8年(1622年)に出羽由利郡内において1万石を加増されて2万石の大名となりました。翌年、吉隆は出羽亀田藩に藩庁を移し、信濃中村の領地も出羽国に替地されたため、信濃中村藩は廃藩となり、岩城氏は亀田藩2万石として明治維新まで続きました。
なお「岩城吉隆」は後に「佐竹義宣」の養子となり「佐竹義隆」と改名して久保田藩第2代藩主となりました。
【廃藩のあと——同じ村に、二度べつの陣屋が置かれました】
信濃中村藩は元和二年(1616年)七月、岩城貞隆が松平忠輝の旧領から一万石を与えられて立ちました。貞隆は「鬼義重」と呼ばれた佐竹義重の三男です。中村に陣屋を置き、岳北地方一万石を支配しました。場所は長野県下高井郡木島平村です。
元和六年に貞隆が没して長男の岩城吉隆が継ぎ、翌年に加増されて二万石。元和九年(1623年)に藩庁を出羽亀田へ移して廃藩となりました。なおこの吉隆は、のちに佐竹義隆と名を改めて久保田藩の二代藩主になります。
そのあとの木島平は、寛永十六年から飯山藩領となり、宝永二年(1705年)に幕府領へ。このとき幕府代官の窪島市郎兵衛と作右衛門の父子が、ふたたび中村に陣屋を置いて統治しました。享保二年(1717年)からは中野代官所の支配で幕末を迎えます。
同じ村に、大名の陣屋と天領の陣屋が、別々の理由で二度置かれたことになります。
幕末のこの村を動かしていたのは、殿様ではなく産業と百姓でした。菜種・木綿・桑が換金作物として作られ、開国による生糸輸出で養蚕が活発になります。内山紙は障子紙や提灯の紙、そして蚕卵原紙として他国にも広い販路を持ちました。
そして明治三年十二月十九日、中野騒動が起こります。増税と贋金の流入、米価の高騰を背景に、高井郡で約二千人が蜂起しました。豪農や商家を打ちこわし、中野県庁を焼き討ちして県吏を殺害。松代藩などの兵に鎮圧され、約六百名が捕らえられて、斬首六名、絞首二十二名、徒刑十年百二十四名という処罰が下されました。
そして県庁が焼けたことで長野への移庁が決まり、明治四年七月に長野県が成立します。いまの県庁所在地は、この騒動が決めたことになります。
中村陣屋の跡は、村の資料の図では旧北部小学校の北側に「御殿」と記された場所にあたります。現存する建物はありません。
【場所・アクセス・地図】

