信濃中村藩の歩み
「大坂の陣」(手柄を立てたのは慶長二十年=1615年の夏の陣とされます)で、「岩城貞隆」は本多正信の軍に属して功績を挙げたことから、元和二年(1616年)七月、「松平忠輝」が改易された後、その旧領のうちから一万石を与えられて信濃中村藩を立藩しました。
元和六年(1620年)十月に貞隆は死去し、後を長男の「岩城吉隆」が継ぎました。吉隆は元和八年(1622年)に出羽由利郡内において一万石を加増されて二万石の大名となりました。翌年、吉隆は出羽亀田藩に藩庁を移し、信濃中村の領地も出羽国に替地されたため、信濃中村藩は廃藩となり、岩城氏は亀田藩二万石として明治維新まで続きました。
なお「岩城吉隆」は後に「佐竹義宣」の養子となり「佐竹義隆」と改名して久保田藩第2代藩主となりました。
廃藩のあと—同じ村に、二度べつの陣屋が置かれました
信濃中村藩は元和二年(1616年)七月、岩城貞隆が松平忠輝の旧領から一万石を与えられて立ちました。貞隆は「鬼義重」と呼ばれた佐竹義重の三男です。中村に陣屋を置き、岳北地方一万石を支配しました。場所は長野県下高井郡木島平村です。
元和六年に貞隆が没して長男の岩城吉隆が継ぎ、元和八年(1622年)に出羽由利郡で一万石を加増されて二万石。元和九年(1623年)に藩庁を出羽亀田へ移して廃藩となりました。なおこの吉隆は、のちに佐竹義隆と名を改めて久保田藩の二代藩主になります。
そのあとの木島平は、寛永十六年から飯山藩領となり、宝永二年(1705年)に幕府領へ。このとき幕府代官の窪島市郎兵衛と作右衛門の父子が、ふたたび中村に陣屋を置いて統治しました。享保二年(1717年)からは中野代官所の支配で幕末を迎えます。
同じ村に、大名の陣屋と天領の陣屋が、別々の理由で二度置かれたことになります。
幕末のこの村を動かしていたのは、殿様ではなく産業と百姓でした。菜種・木綿・桑が換金作物として作られ、開国による生糸輸出で養蚕が活発になります。内山紙は障子紙や提灯の紙、そして蚕卵原紙として他国にも広い販路を持ちました。
そして明治三年十二月十九日、中野騒動が起こります。増税と贋金の流入、米価の高騰を背景に、高井郡で約二千人が蜂起しました。豪農や商家を打ちこわし、中野県庁を焼き討ちして県吏を殺害。松代藩などの兵に鎮圧され、約六百名が捕らえられて、斬首六名、絞首二十二名、徒刑十年百二十四名という処罰が下されました。
そして県庁が焼けたことで長野への移庁が決まり、明治四年七月に長野県が成立します。いまの県庁所在地は、この騒動が決めたことになります。
中村陣屋の跡は、村の資料の図では旧北部小学校の北側に「御殿」と記された場所にあたります。現存する建物はありません。
十二万石を失った陸奥の岩城氏
中村藩を開いた岩城貞隆は、常陸の佐竹義重の三男で、陸奥の名族・岩城家に養子に入った人です。岩城氏は平安時代から陸奥の岩城郡(いまの福島県いわき市一帯)を治めた古い家で、戦国時代には十二万石を領する大名でした。ところが慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いのときに、兄・佐竹義宣と同じく態度をはっきりさせず、家康の命じた上杉攻めにも加わらなかったことを咎められ、慶長七年(1602)に領地を没収されます。いわきの岩城氏の時代はここで終わりました。
浪人となった貞隆は、大坂の陣で本多正信の軍に加わって手柄を立て、ようやく信濃の中村で一万石の大名に返り咲きます。十二万石の名家が、信濃の山あいの一万石から出直したのでした。
岩城家の幕末—出羽亀田藩の苦しい選択
中村から出羽の亀田(いまの秋田県由利本荘市)に移った岩城家は、二万石の亀田藩主として明治を迎えます。秋田の佐竹家(久保田藩)とは、貞隆の子・吉隆が佐竹家の養子となって二代藩主・佐竹義隆となったことから、深い縁で結ばれていました。
慶応四年(1868)の戊辰戦争では、亀田藩ははじめ新政府側の久保田藩とともに庄内藩と戦いましたが、強い庄内軍に領内に攻め込まれると、庄内側に降って同盟軍に加わります。しかしまもなく同盟側が敗れると再び新政府に降り、戦後には領地を削られました。中村で出直した岩城家は、二百五十年後、またしても強い隣国のあいだで生き残りを図ることになったのです。
浅草の浪人から大名へ—岩城貞隆と天海、二つの中村藩
浅草の浪人時代
信濃中村藩の藩祖・岩城貞隆は、佐竹義重の三男で、陸奥の名門・岩城家を継いだ人です。関ヶ原で兄の佐竹義宣とともに動かなかったため、所領を失って浪人となりました。浪人中は江戸浅草に住み、いわきの飯野八幡宮に何度も家の再興を祈ったといいます。浪人時代に離れずに仕えた家臣四十二人の名前が、のちに書き残されています。
天海と土井利勝
貞隆は土井利勝の内意を受けて家康に再興を願い出て、本多正信の組に入りました。再興を後押ししたのは天海とされます。天海は、貞隆の次兄が継いだ蘆名氏の一族と伝わる人物です。大坂の陣で手柄を立てた貞隆は、元和二年(1616年)に信濃中村一万石の大名となりました。家格は外様です。
もう一つの中村藩
貞隆の正室は相馬義胤の娘でした。相馬家も同じころに領地を失い、のちに陸奥の「中村藩」として再興されています。信濃の中村藩と陸奥の中村藩が、親戚どうしだったのです。貞隆は元和六年(1620年)に三十八歳で亡くなり、子の吉隆は寛永元年(1624年)に出羽亀田へ移りました。吉隆はのちに伯父の佐竹義宣の養子となって秋田藩主・佐竹義隆になっています。
亀田藩と真田信繁の娘
岩城家の亀田藩は幕末まで続きました。亀田藩主には真田信繁(幸村)の娘・お田の方が嫁いでいて、由利本荘市の天鷺村には信繁の娘が持ってきたと伝わる甲冑があります。戊辰戦争では、無人になった亀田城下で久保田藩(佐竹家)の兵が略奪し、城に火を放ちました。実家筋の佐竹家に焼かれたことになります。浅草の浪人から始まった家の物語は、最後まで波乱に満ちていました。



