【藩名】
上総一宮藩
【説明】
第4代藩主「加納久宜」は「戊辰戦争」のとき、新政府側に与しました。当初は鳥羽伏見の戦いに参戦するため海路京都へと向かったが、途中大時化にあい断念しました。明治2年(1869年)の「版籍奉還」で久宜は一宮藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」で一宮藩は廃藩となり一宮県となりました。

さらに11月には「木更津県」を経て千葉県に編入されました。最後の藩主となった「加納久宜」は後に一宮町長となり、その子「加納久朗」は戦後に千葉県知事を務めています。一宮陣屋跡の遺構は大手門の模擬門が残るのみです。
上総一宮の加納家
一宮藩は、上総国長柄郡一宮(現在の千葉県一宮町)に置かれた一万三千石の藩で、藩主は加納家でした。房総の東岸、九十九里浜の南に位置し、一宮陣屋を拠点に城下が営まれました。比較的新しく成立した藩で、幕末には海防の一端も担う立場にありました。
新政府への恭順
幕末の一宮藩は、戊辰戦争にあたって新政府軍に恭順し、家名を保ちました。太平洋に面したこの地は、幕末には外国船への警戒から海防が重視された地域でもあり、江戸に近い房総の小藩として時代の転換を穏当に乗り切っています。
海防のために伊勢から房総へ移った藩
一宮藩の成り立ちは、幕末の海防と直結しています。
加納家はもともと伊勢の八田藩一万石の大名でした。享保十一年に加納久通が諸侯に列し、寛政八年に一万三千石へ加増されています。それが文政九年(一八二六)三月、五代加納久儔(ひさとも)のときに、幕府の海防政策にともなって飛地であった上総国一宮へ藩庁を移しました。
移った先に選んだのは、中世の一宮城の跡地です。荒れて土塁だけが残っていた台地に陣屋を置き、周囲を整えました。陣屋そのものは幕末の新築ではなく、文政年間の移転にともなうものです。
久儔は灌漑用水の洞庭湖を築き、天保の飢饉では囲米の制を定めるなど、移ってきた土地の経営に力を注ぎました。
「加納の陣立て」——高島秋帆に学んだ砲台と農漁民の部隊
その海防を本気で形にしたのが、二代の加納久徴(ひさあきら)です。
久徴は幕府でも要職を歴任しました。嘉永二年に大番頭、安政二年に講武所総裁を兼任、のち奏者番を経て文久元年七月に若年寄となっています。
そして領地では、天保十五年(一八四四)に高島秋帆の指導で大砲を鋳造させ、翌弘化二年に九十九里浜へ砲台を築きました。砲台の年は天保十五年とする資料もあり、諸説あります。
注目したいのはその先です。久徴は家臣だけでなく、町民や農漁民を募ってオランダ式の部隊を編み、練兵を行いました。この様子は「加納の陣立て」と呼ばれて評判を取ったと伝えられます。一万三千石の藩が、黒船の来る九年前に領民を洋式で訓練していたわけです。高島秋帆といえば、岡部藩に預けられていた罪人の身から諸藩に砲術を広めた人ですが、その影響が上総の小藩にも届いていたことになります。
薩長に次いで版籍奉還を申し出た藩主
最後の藩主が加納久宜(ひさよし)です。慶応三年、十九歳で急遽養子となって家督を継ぎました。
鳥羽伏見の戦いの報せを受けると、ただちに出陣を申し出て藩兵を率いて海路京都へ向かいます。戦闘には間に合わず、旧幕府軍が江戸へ引いたと知って撤退しました。そして明治元年、薩摩・長州に次いで率先して版籍奉還を太政官代へ奉呈しています。一万三千石の藩としては、際立った動きでした。
久宜はその後も働きます。明治九年に華族子弟の学校創設を建議して学習院の創設に貢献し、明治二十七年には鹿児島県知事となって米の生産量を大きく伸ばし、全国に先駆けて小学校の授業料を無料にしました。帝国農会の初代会長として日本農政の父とも呼ばれます。晩年の明治四十五年には一宮町長となり、耕地整理や海水浴場の整備、女学校の設立などに取り組みました。
一宮城跡は町の指定史跡で、いまは城山公園です。江戸時代の陣屋は明治維新のころに取り壊されましたが、城之内、陣屋、櫓前といった地名が残っています。久宜は明治十七年に子爵となり、その墓も町の指定史跡として城山にあります。
【場所・アクセス・地図】

