平戸藩/松浦家6万1700石:松浦詮 鳥羽・伏見の戦い直後に新政府軍に加わった平戸藩

【藩名】
平戸藩

【説明】
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」で「徳川家康」率いる東軍に与した「松浦鎮信」は6万3千石の所領を安堵され平戸藩が確立しました。江戸期を通じて平戸の地を統治し続け、12代「松浦詮」の時代に幕末を迎えます。

平戸藩/場所・アクセス・地図 松浦家6万1700石:松浦詮 鳥羽・伏見の戦い直後に新政府軍に加わった平戸藩【幕末維新写真館】

第二次長州征伐で事実上幕府が敗北すると、藩論は倒幕に傾斜し、慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」直後、新政府軍への参戦を明確にしました。

慶応4年(1868年)1月8日には新政府軍に加わるため上洛しています。同時に軍制改革により洋式の銃部隊を編成し、奥州(奥羽戦争)へと転戦しました。明治4年(1871年)、廃藩置県により藩領は平戸県となったのち、長崎県に編入されました。

目次

水軍と南蛮貿易の地・平戸

平戸藩は、肥前国(現在の長崎県平戸市)に置かれた六万石余りの藩で、藩主の松浦家は中世以来この地を治めた水軍の名家でした。江戸時代の初め、平戸にはオランダやイギリスの商館が置かれ、日本の対外貿易の窓口として栄えた歴史を持ちます。異国との交わりの記憶を色濃く残す、独特の由緒を持つ藩でした。

鳥羽・伏見のあと新政府へ

幕末の平戸藩は、鳥羽・伏見の戦いの直後に新政府軍に加わり、時流に従って家名を保ちました。西国の外様大名として、早くから海外情勢に通じた土地柄が、幕末の身の処し方にも表れています。

藩主の曽祖父が、明治天皇の曽祖父でもあります

平戸藩を語るなら、まず九代・松浦清、号して静山から入るのがよさそうです。宝暦十年の生まれで、安永四年二月十六日に家督を継ぎました。経費を切り詰め、役所の仕組みを簡素にし、農具や牛馬を貸す制度をつくり、身分にこだわらず人を登用した藩主です。安永八年には藩校の維新館と、楽歳堂という文庫を城内に置きました。そしてこの人の十一女・愛子が公家の中山忠能に嫁いで慶子を産み、その慶子が孝明天皇の典侍となって明治天皇を産みます。つまり静山は明治天皇の曽祖父にあたります。

二十年かけて、二百七十八巻を書きました

静山は文化三年に隠居したあと、文政四年十一月十七日の甲子の夜から随筆を書きはじめます。『甲子夜話』です。正編百巻、続編百巻、三編七十八巻、合わせて二百七十八巻を、天保十二年に八十二歳で亡くなるまでおよそ二十年書き継ぎました。田沼時代や寛政の改革の回顧、シーボルト事件、大塩平八郎の乱、町の風俗、他藩や旗本の逸話、人物評、海外の事情まで入っています。副本と写本は長崎県の文化財です。

幕末の平戸と、戊辰戦争

嘉永三年には吉田松陰が平戸へ遊学し、万延元年には平戸瀬戸に台場が築かれました。幕末の藩主・松浦詮は天保十一年の生まれで、安政五年九月十日に十二代を継いでいます。第二次長州征伐のあと藩論は倒幕へ傾き、慶応四年一月八日に上洛して明治天皇に従いました。戊辰戦争では早くから官軍方につき、洋式の銃隊を編成して奥州へ転じ、同年八月には奥羽平定戦へ諸隊を送っています。戦後の論功行賞で賞典三千石を受けました。ただし兵の数や具体的な戦場、出発の日までは確かめられませんでした。詮は明治十三年九月一日に私塾の猶興書院を興しており、これが現在の県立猶興館高校につながります。

城と、オランダ商館の跡

平戸城は元禄十七年二月に着工して宝永四年にほぼ完成した城で、山鹿義昌の指導による山鹿流の縄張りで知られます。明治四年の廃城令で翌年に取り壊され、狸櫓と北虎口門だけが残りました。狸櫓は藩政時代から残る唯一の櫓、北虎口門は唯一の木造の遺構です。いまの天守は昭和三十七年の復興によるものです。町に下りれば、オランダ商館の跡が大正十一年十月十二日に国の史跡となっており、商館が置かれてから長崎へ移るまでの三十三年間、平戸は日本で唯一のオランダ貿易港でした。一六三九年に建った石造の倉庫は、破風に西暦の年号が入っていることを理由に翌年十一月九日に取り壊しを命じられた建物で、平成二十三年に復元されています。幸橋は元禄十五年に架けられた石造の単アーチ橋で、商館の建造に関わった大工の技術によるとされ、昭和五十三年一月二十一日に国の重要文化財となりました。天文十一年に明の海商・王直が住んだことに由来する六角井戸は、昭和五十年一月七日に長崎県の史跡です。

【場所・アクセス・地図】

〒859-5121 長崎県平戸市岩の上町1473

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