岐阜藩/織田家13万3千石:織田秀信 織田信長の嫡孫であり関ヶ原の前哨戦で西軍に与したため落城・廃藩

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岐阜藩の歩み

天正二十年(1592年)に「織田信長」の嫡孫「織田秀信」が「豊臣秀吉」の計らいによって十三万石で岐阜城へ入封しました。岐阜の地は信長の時代から天下布武の重要な拠点であったが、本拠地を安土に移すとその重要性も薄れていきました。しかし、安土移転後も信長の嫡男「織田信忠」が城主を務めるなど依然織田氏の重要拠点として機能していました。

岐阜藩/場所・アクセス・地図 織田家13万3千石:織田秀信 織田信長の嫡孫であり関ヶ原の前哨戦で西軍に与したため落城・廃藩【幕末維新写真館】

「関ヶ原の戦い」の前哨戦で城主の秀信が西軍(石田三成)に与したため、東軍の先鋒隊に攻撃され岐阜城は落城・破却されました。その後、「奥平信昌」が加納城を築城しその完成と共に加納藩が立藩され岐阜城は廃城となりました。

廃藩のあと—岐阜城の材木で建った城が、幕末に門を開いた

元和元年(1615年)に岐阜城が廃されたあと、元和五年(1619年)から岐阜町は尾張藩領となり、代官が置かれて幕末までそのまま続きました。

そして岐阜城の跡地から少し南、加納には加納城があります。この城は岐阜城の資材を転用して築かれました。岐阜県の説明にも「岐阜城から天守閣を移築するなどして櫓・城門・居館を整えた」とあります。信長の城は解体され、加納城に生まれ変わったわけです。

その加納藩は、宝暦六年(1756年)に永井直陳が入って以来、六代にわたって永井家が治めました。幕末の藩主・永井尚服は幕府の中枢にいた人物です。文久三年に講武所奉行、慶応二年に寺社奉行兼奏者番、そして慶応三年六月には若年寄兼会計奉行となっています。

鳥羽伏見の敗報が届いても当初は旧幕府を支持していましたが、家老たちが隠居を願い出るに至り、慶応四年二月二十一日、東山道先鋒総督府に恭順を申し入れました。のちに藩兵が新政府軍として働き、謹慎を解かれています。

美濃の天領のほうも同じころ動いています。慶応四年正月、東山道鎮撫使の竹沢寛三郎が笠松陣屋を接収し、「天朝御用所」と改めました。のちの笠松裁判所、笠松県です。美濃は約三割が幕府直轄領という、小藩と天領が入り組んだ国でした。廃藩置県のあと、美濃の九県が統合されて岐阜県となりますが、県庁は明治六年まで笠松に置かれていました。

加納城跡は国の史跡で、加納公園として整備され門跡と石垣が残ります。中山道の加納宿は美濃十六宿で最大の宿場であり、城下町にある唯一の宿場でした。

清洲会議の「三法師」

岐阜藩の主・織田秀信は、天正十年(1582)の本能寺の変で父の織田信忠とともに祖父・信長を失った幼子でした。幼名は三法師。変のあと、織田家の重臣たちが跡継ぎを決めるために開いた清洲会議で、羽柴秀吉はわずか三歳の三法師を織田家の当主に推し、自分がその後見として主導権を握りました。秀吉が天下人への階段を上る最初の一歩に、三法師は担がれたのです。

成長した三法師は秀信と名のり、秀吉から岐阜十三万石を与えられて、祖父と父が拠った岐阜城の主となりました。キリスト教の洗礼も受けていたと伝わります。

関ヶ原の一か月前の落城

慶長五年(1600)、秀信は石田三成の誘いを受けて西軍につきました。八月二十三日、福島正則・池田輝政らの東軍の先鋒が岐阜城に攻めかかり、城はその日のうちに落ちます。信長が天下布武を掲げた城は、関ヶ原の本戦のおよそ三週間前に、信長の孫とともに陥落したのでした。秀信は助命されて高野山に入り、慶長十年(1605)に二十六歳で亡くなっています。織田家の嫡流はここで途絶えました。

金華山の城と山麓の居館

岐阜城は、標高三百二十九メートルの金華山の山頂に築かれた山城です。信長の時代には、山頂の城とは別に、山麓に壮麗な居館を構えていました。永禄十二年(1569)にここを訪れた宣教師ルイス・フロイスは、庭園や池をそなえた何層もの館の豪華さを書き残しています。この山麓の居館跡は発掘調査が進み、金箔を貼った瓦なども見つかっています。いまの山頂の天守は昭和三十一年(1956)に再建されたものです。

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藩の成り立ち—秀信が岐阜城主に戻るまで

清洲会議で織田家の家督を継いだ三法師(秀信)は、その後しばらく岐阜城を離れていました。天正十九年(1591年)には近江大溝城に入っていたと推定されています。転機は文禄元年(1592年)九月、岐阜城主だった豊臣秀勝(秀吉の甥)が朝鮮出兵中に病没したことでした。秀信はその遺領を継ぎ、祖父信長・父信忠以来の岐阜城主に戻ります。秀勝の養子として跡を継いだとする記録もあります。

豊臣政権のもとで秀信は羽柴の姓を与えられ、文禄二年(1593年)までに権中納言に昇って「岐阜中納言」と呼ばれました。キリシタン大名でもあり、洗礼名はペドロと伝わります。

領地のようす—信長の政策を受け継いだ城下

秀信は岐阜城主として、楽市楽座の制札を出す、鵜飼いを保護する、鏡島湊を整えるなど、祖父信長の政策を受け継いで町と水運の発展に努めたとされます。城下に教会や司祭館を建てる一方で、崇福寺や円徳寺といった仏教の寺も厚く保護しました。朝鮮出兵のときには、亡くなった秀勝が率いていた美濃衆8,000人を、秀信の家老百々綱家が急いで引き継いで率いています。

藩の終わり—米野の戦いと岐阜城攻防戦

慶長五年(1600年)、秀信ははじめ徳川家康の会津征伐に加わる予定でしたが、出発が遅れるうちに、石田三成から「勝てば美濃・尾張の2か国を与える」と誘われて西軍につきました。秀信が西軍に回ったことで、美濃の諸将の多くもそれにならったといいます。

八月二十二日、木曽川沿いの米野で、家老の百々綱家・飯沼長資らが東軍を迎え撃ち、秀信自身も兵を率いて閻魔堂まで出ましたが、兵力の差で敗れました。同じ日に竹ヶ鼻城も落ち、城将の杉浦重勝が討死しています。秀信は弟の秀則とともに岐阜城に籠もりますが、攻め手の池田輝政はかつての岐阜城主で城の造りをよく知っていたこともあり、二十三日、輝政の説得を受けて降伏しました。城下の崇福寺には、このとき家臣38人が切腹した場所の床板を天井に張ったと伝わる「血天井」が残っています。

秀信のその後と織田家嫡流の断絶

降伏した秀信を助けることには異論もありましたが、福島正則が自分の武功と引き換えにと家康に助命を願い、秀信は美濃13万石を取り上げられて高野山へ送られました。生き残った家臣の多くは、福島家・池田家・浅野家など、岐阜城を攻めた側の大名に召し抱えられたといいます。

高野山では、祖父信長が高野山を攻めたことが仇となって、すぐには入山を許されなかったと伝わります。慶長十年(1605年)五月に山を下り、その月のうちに麓の向副で亡くなりました。病気療養のための下山とも、自害ともいわれます。公に認められた跡継ぎはなく、信長から続く織田弾正忠家の嫡流はここで絶えました。なお、下山後にもうけた子がいたとして、秀信の子孫を称する家が伝わっていますが、確かな史料による裏付けはありません。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、13万3千石のこの藩はおよそ3,130人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。岐阜藩は江戸幕府ができる前に終わった藩なので、あくまで後の時代の物差しを当てた参考値です。

参考:Wikipedia「岐阜藩」「織田秀信」

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