【藩名】
黒石藩(弘前藩支藩)
【説明】
弘前藩の支藩に、陸奥国津軽郡黒石(現在の青森県黒石市)に政庁が置かれた「黒石藩」があります。黒石藩は明暦2年(1656年)黒石津軽家の「津軽信政」が本藩宗家を継ぐと同時に弘前藩より5,000石を分与されたのに始まります。文化6年(1809年)弘前本藩より更に6,000石の分与があり、1万石の外様大名として諸侯となり、藩庁は黒石陣屋(黒石城)に置かれました。
幕末の「戊辰戦争」では本家の弘前藩と行動をともにしました。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により黒石県となり、同年9月、他県とともに弘前県に合併し現在の青森県の一部となりました。
本家・弘前藩との関係
黒石藩は、陸奥の弘前藩(津軽藩)の支藩で、津軽家の分家が一万石を領しました。
戊辰戦争では、黒石藩は本家の弘前藩と同じく、奥羽越列藩同盟から離れて新政府軍に与しました。最後の藩主は津軽承叙(つぐみち)です。津軽一門として、宗家と歩みをともにした支藩でした。
旗本から大名に戻った黒石津軽家
黒石の歴史は、明暦二年(1656年)に弘前藩(津軽藩)主の弟である津軽信英が五千石を分けられ、交代寄合の旗本として黒石に陣屋を構えたところから始まります。信英は既存の街路をもとに新しい町割を行い、現在に続く黒石の骨格をつくりました。大名に列して黒石藩となるのは、のちに一万石へ加増されてからのことです。
幕末の藩主・津軽承叙と戊辰戦争
幕末の藩主は津軽承叙(つぐみち)でした。三代藩主の津軽承保の養子となり、嘉永四年(1851年)に家督を継いでいます。戊辰戦争では本家の弘前藩主である津軽承昭とともに新政府方に加わり、箱館の戦いにも兵を出しました。なお承叙が本家の弘前藩を継いだという話を見かけますが、これは誤りで、幕末から明治の弘前藩主は熊本細川家から入った承昭です。
本家の弘前藩の動きは揺れました。当初は新政府に従う姿勢でしたが、孤立を恐れて五月に奥羽越列藩同盟へ加わり、七月に中央の情勢を知って離脱し、ふたたび官軍に与しています。黒石藩はその都度、本家と行動をともにしました。
野辺地戦争——津軽と南部の因縁
明治元年(1868年)九月二十三日未明、小湊にいた弘前・黒石両藩の兵およそ百八十人が三隊に分かれ、うち六十人が盛岡藩領の野辺地馬門村へ侵入して火を放ちました。ここで盛岡藩の安宅正路が率いる七戸隊の逆襲を受け、隊長の小島左近と半隊司令士の谷口永吉が討たれて撤退します。津軽側の戦死者は、弘前藩の記録では二十九人、墓碑に名の残るのは二十七人とされますが、諸説あります。
野辺地町には「野辺地戦争戦死者の墓所」が青森県の史跡として残されています。戊辰戦争の局面としては小さな戦いでしたが、津軽と南部の長い確執を象徴する出来事として語り継がれてきました。
黒石陣屋跡と「こみせ」の町並み
黒石陣屋の跡地は青森県黒石市内町にあたります。明治六年に黒石小学校が建てられ、現在は市民文化会館などの敷地となっており、馬場の跡は公園になりました。江戸時代の建築で唯一残るのは、津軽信英の廟前にあった廟門で、黒石神社の神門として移築されています。黒石神社は信英を祀る社で、廟のあった場所に明治十二年に社殿が建てられました。
黒石でいまも歩けるのが「こみせ」です。主屋の前に庇を張り出して雪や日差しを避ける木造のアーケードで、重要文化財の高橋家住宅が建てられた一七六〇年代にはすでに、こみせを備えた商家が軒を連ねていたと伝わります。黒石市中町は平成十七年七月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。豪雪地で暮らしを支えてきた通路が、そのまま町の資産になっています。
【場所・アクセス・地図】
青森県黒石市

