渋沢成一郎(渋沢喜作)とは何をした人物か—渋沢栄一の従兄で彰義隊の初代頭取。振武軍・飯能戦争から箱館へ、明治は生糸と米の商人に

渋沢成一郎(喜作)は、彰義隊の初代頭取です。渋沢栄一の従兄で、栄一と一緒に故郷を出て一橋家に仕え、幕臣になりました。彰義隊を離れたあとは振武軍を率いて飯能で戦い、さらに箱館戦争まで戦い抜きます。そして明治になると、生糸と米の商売で財界に名を残しました。

渋沢成一郎(喜作)の肖像
晩年の渋沢喜作(成一郎)(出典:国立国会図書館、Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
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先に答え—渋沢成一郎とは

生没年天保9年6月10日(1838年7月30日)〜大正元年(1912)8月30日。享年75
出身武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)。渋沢文左衛門の長男
名前成一郎は幕末の名乗りで、のちに喜作。渋沢栄一の従兄(2歳年上)
何をした人彰義隊の初代頭取。振武軍を率いて飯能戦争を戦い、箱館戦争にも参加。明治以降は実業家
墓祐天寺墓地(東京都目黒区)

血洗島の従兄弟—栄一と喜作

渋沢成一郎は、天保9年、武蔵国榛沢郡血洗島村(いまの埼玉県深谷市)に生まれました。のちに日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一とは同じ村の従兄弟で、成一郎が2歳年上です。二人は幼いころから一緒に学び、行動をともにしました。

一橋家に仕えていたころの渋沢栄一
一橋家に仕えていたころの渋沢栄一(1866年ごろ)(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

若い二人は尊王攘夷の考えに燃え、文久3年(1863)には、従兄の尾高惇忠らと上州の高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという計画まで立てます。けれども、京都の情勢を見てきた尾高長七郎に説得されて計画を取りやめ、二人は京都へ向かいました。

一橋家から幕臣へ

京都で二人を拾ったのが、一橋慶喜の側近・平岡円四郎でした(平岡円四郎暗殺とは)。元治元年(1864)、成一郎と栄一は平岡の取りはからいで一橋家に仕えます。倒幕を考えていた若者が、徳川一門の家臣になったのです。

成一郎は農兵を集める仕事などで力を認められ、慶応2年(1866)に幕府の陸軍附調役となり、幕臣になりました。翌年、慶喜が将軍になると、奥右筆に取り立てられています。栄一がパリ万博の使節団に加わってヨーロッパへ渡ったころ、成一郎は慶喜のそばで幕府の最後を迎えることになりました。

彰義隊の初代頭取

慶応4年1月、成一郎は鳥羽・伏見の戦いに加わります。敗れた慶喜が江戸に戻って謹慎すると、慶喜を守るために旧幕臣たちが集まりました。2月、その集まりに招かれた成一郎は、入札(投票)で頭取に選ばれます。これが彰義隊で、副頭取には天野八郎が選ばれました(彰義隊とは)。

上野公園に立つ彰義隊の墓
上野公園の「彰義隊の墓」。明治になって、生き残った隊士たちの手で建てられた(出典:Wikimedia Commons、撮影:酒場の金魚、パブリックドメイン)

天野八郎との対立と離脱

4月、江戸城が明け渡され、慶喜は水戸へ退きます。成一郎は、江戸を離れて日光へ退き、態勢を立て直すべきだと主張しました。一方の天野八郎は、江戸に残って上野で戦うべきだと譲りません。対立は激しくなり、天野派が成一郎の暗殺を企てたという話まで伝わっています。

結局、成一郎は彰義隊を離れました。慶喜の家臣として、主君のいない江戸で戦うことに意味を見いだせなかったのかもしれません。この判断が、成一郎を上野の山の戦いから遠ざけ、その後の生涯を分けることになります。

振武軍と飯能戦争

彰義隊を離れた成一郎は、尾高惇忠らと「振武軍」を結成し、武蔵の田無を経て、飯能の能仁寺に本陣を置きました。人数は400〜500人とする説のほか、600人、1,500人とする記録もあります。

5月15日に上野の彰義隊が敗れると、新政府軍は振武軍にも兵を向けます。5月23日、大村・佐土原・岡山・川越など諸藩の兵2,000〜3,000人が飯能を攻め、振武軍は半日ほどで敗れました。能仁寺など4つの寺と民家約200軒が焼けたといいます。これが飯能戦争です(飯能戦争とは)。振武軍に加わっていた渋沢平九郎(尾高惇忠の弟で、パリへ渡る栄一の見立て養子になっていた若者)は、敗走の途中、顔振峠の近くで自刃しました。

能仁寺と町が燃えるなか、川を渡って攻め込む新政府軍と山へ退く振武軍(イラスト)
飯能戦争。能仁寺と飯能の町が焼け、振武軍は山へ退いた(イメージイラスト)

箱館へ—小彰義隊の頭取

成一郎はそれでも戦いをやめませんでした。上州の伊香保や草津に潜んだのち、品川沖を出た榎本武揚の艦隊に加わります。8月、振武軍と上野から逃れた彰義隊の生き残りで新しい彰義隊をつくり、その頭となりました。

五稜郭の中にあった箱館奉行所の古写真
五稜郭の中にあった箱館奉行所。旧幕府軍はここを本拠にした(1868年ごろ)(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

蝦夷地では、11月の松前城攻めのとき、軍資金の確保を優先した成一郎の方針をめぐって隊が割れます。榎本の仲裁で、成一郎に従う者たちは「小彰義隊」となりました(箱館戦争とは)。明治2年5月、箱館が総攻撃を受けるなかで隊を離れて湯の川方面に潜み、6月に新政府に出頭しています。

明治の渋沢喜作—栄一に救われて

牢に入れられた成一郎の身元を引き受けたのは、パリから戻り、新政府に仕えていた従弟の栄一でした。赦免された成一郎は名を喜作と改め、大蔵省に出仕して、養蚕と製糸の調査のためにヨーロッパへ渡ります。

大蔵省を辞めたあとは渋沢商店を開き、深川では米の問屋、横浜では生糸の売込問屋を営みました。東京商法会議所の発起人に名を連ね、深川正米市場の初代総行事や取引所の理事長も務めています。一方で、米や洋銀の相場で何度も大きな損を出し、そのたびに栄一が後始末をしたと伝わります。責任をとって隠居したのちは、白金台の邸宅(いまの八芳園)で晩年を過ごし、大正元年8月30日に75歳で亡くなりました。

渋沢成一郎という人を考える

同じ村で育ち、同じ計画を立て、同じ一橋家に仕えた二人の従兄弟。栄一はたまたまヨーロッパにいて戊辰戦争に関わらず、成一郎は彰義隊、振武軍、箱館と、旧幕府の側で最後まで戦いました。もし栄一が日本に残っていたら、二人の立場は逆だったかもしれません。

そして戦いに敗れた成一郎を救ったのは、新政府側に立った栄一でした。庄内藩と西郷隆盛、榎本武揚と黒田清隆のように、戊辰戦争のあとには敗れた者を勝った側が引き上げる話がいくつもあります。渋沢家の二人の話は、それがいちばん身近な親族の間で起きた例だと思います。

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ「渋沢喜作」)、『日本人名大辞典』(コトバンク「渋沢喜作」)
  • 埼玉県「渋沢栄一年譜」
  • Wikipedia「渋沢成一郎」「彰義隊」「飯能戦争」

文:佐藤秀信
※イラストはイメージです

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