常陸古渡藩の歩み
「関ヶ原の戦い」の功により近江の一部を領していた「山岡景友」が初代古渡藩主として封じられたが、無嗣改易となりました。その後、関ヶ原の戦いで中立を貫いて「前田利長」と争ったため、一時期改易されていた「丹羽長重」が、許されて慶長八年(1603年)に常陸国河内郡内に一万石を与えられて常陸古渡藩を立藩しました。
長重は「織田信長」に仕えた丹羽長秀の嫡男で、信長の養女を母に、信長の娘を妻としていました。大坂の陣においては徳川方として武功を挙げるなどしたことから、元和五年(1619年)、一万石を加増の上で「江戸崎藩」へ移封となったため常陸古渡藩は廃藩となりました。
廃藩のあと—大名より長く続いた、漁民の自治
古渡は常陸国河内郡、いまの茨城県稲敷市古渡です。関ヶ原で改易されていた丹羽長重が、徳川秀忠の取りなしで慶長八年(1603年)に一万石で入って立藩しました。大名としての復帰の地です。元和五年(1619年)に江戸崎で加増されて移り、古渡藩は十六年で終わります。
幕末の古渡がどこの領地だったかは、わかっていません。正直に書いておきます。
ただ、この土地には藩よりずっと長く続いたものがありました。「霞ヶ浦四十八津」です。江戸初期に成立した霞ヶ浦沿岸の漁村の入会組合で、古渡村は「南津頭」、玉造村は「北津頭」として中心的な役割を担いました。慶安三年(1650年)には漁期や漁具の制限、寄合の日取りを定めた掟書を作っています。
つまり大名の城下としては十六年で消えた土地が、漁民の自治の中心地として二百年近く機能していたことになります。
その四十八津も、江戸後期には統制の組織へ変わり、天保二年(1831年)に幕府の水行直普請の下部組織とされて衰えました。幕末を迎えるころには、自治の仕組みとしては消えていたことになります。
古渡は霞ヶ浦に注ぐ小野川の河口にあり、古くから香取海に面した港として発展しました。南北朝のころには「福戸津」と記した史料もあります。
古渡城跡は八十メートル四方ほどの小さな曲輪を持つ城で、稲敷市教育委員会が現地に掲示板を設けています。丹羽長重が近世の城として改修したのは、そこから東へ四百五十メートルほどの「古渡東城跡」ではないかとも指摘されています。
古渡から始まった丹羽長重の再起
丹羽長重は、織田信長の重臣・丹羽長秀の跡を継ぎ、加賀小松十二万石の大名でした。関ヶ原の戦いのとき、北陸で東軍の前田利長と戦ったことから領地をすべて没収されます。古渡の一万石は、そこから再び大名に戻るための足がかりでした。
長重はその後、江戸崎、陸奥の棚倉と移り、寛永四年(1627)に白河十万石あまりに入って白河小峰城を大きく改修しました。いまも白河に残る総石垣の城の姿は、このとき長重がつくったものです(【現地取材】白河)。古渡の小さな曲輪の城から、東北の玄関口を固める城の主にまで戻ったことになります。
長重の家の幕末—二本松少年隊
長重の子・光重は寛永二十年(1643)に陸奥の二本松十万石へ移され、丹羽家はここで明治を迎えました。幕末の二本松藩は、慶応四年(1868)の戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わり、七月二十九日、新政府軍に攻められて二本松城は落ちます。このとき、十二歳から十七歳の少年たちが出陣して多くが命を落とし、のちに「二本松少年隊」と呼ばれるようになりました。
関ヶ原で敗れた側から再起した丹羽家は、二百七十年後、戊辰戦争でもっとも痛ましい戦いの一つを経験することになりました。
最初の藩主・山岡景友
丹羽長重より前に古渡を与えられた山岡景友は、近江の瀬田を本拠とした山岡氏の一族で、出家して道阿弥と名のりました。関ヶ原の戦いの前後には、甲賀の武士たちを率いて家康のために上方の情報を集め、伏見城の籠城にも関わったといわれます。跡継ぎがなく、家は大名としては一代で途絶えました。
すべてを失ってから十万石へ—丹羽長重と古渡(ふっと)
「ふっと」と読む土地
古渡は「ふっと」と読みます。霞ヶ浦のほとり(いまの茨城県稲敷市)の地名で、南北朝時代の「福戸津」という表記とも音が通じます。最初の古渡藩主・山岡景友は、慶長八年(1603年)十月に一万石を得て、同じ年の十二月に亡くなりました。大名だったのは約二か月です。景友は伏見城の門と屋敷を与えられていて、その門がいまの知恩院の黒門だと伝わります。
丹羽長重—関ヶ原で失い、取り戻した人
その後に入った丹羽長重は、織田家の重臣・丹羽長秀の子です。関ヶ原の戦いで西軍について領地をすべて失いましたが、古渡一万石で大名に戻りました。正室は信長の娘で、秀忠の正室・江とはいとこ同士にあたります。織田家とのつながり、戦の支度の見事さ、父ゆずりの築城の腕などが評価されたとされます。家格は外様です。
梨の皮をむいた話
関ヶ原の前、加賀で前田家と戦った浅井畷の戦いのあと、長重は人質として小松城にいた幼い前田利常に、自分で梨の皮をむいて与えたという話が伝わります。利常は晩年まで、梨を食べるたびにその話をしたといいます。
立花宗茂と長重だけ
長重はその後、常陸江戸崎、陸奥棚倉、白河と加増され、十万石以上に返り咲きました。関ヶ原で領地を失ってから十万石以上に戻れたのは、立花宗茂と長重の二人だけといわれます。長重は小松時代に参議となり「小松宰相」と呼ばれました。古渡は、そのやり直しの最初の一歩の場所です。霞ヶ浦のほとりの小さな村から、二本松藩の丹羽家が始まったと思うと、感慨深いものがあります。



