片野藩/滝川家2万石:滝川正利 病弱の為1万8千石を幕府へ返納し廃藩

片野藩 滝川家2万石 最後の藩主 滝川正利
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片野藩の歩み

戦国武将「滝川雄利」は織田信長に仕え、信長没後はその次男「信雄」の家臣となりました。信雄が改易されると豊臣秀吉の家臣として伊勢国神戸に二万石を与えられました。慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では西軍に与したため、改易されました。しかし、将軍「徳川秀忠」に召し出されてその家臣になったことから、常陸片野において二万石を与えら片野藩を立藩します。

雄利の死後、家督は嫡男の「滝川正利」が継いだが、正利には嗣子がなかった上、生来から病弱だったため、寛永二年(1625年)に領地二万石のうち、一万八千石を幕府に返上して二千石の旗本となりました。これにより片野藩は消滅しました。

廃藩のあと—自分から大名をやめた家

この藩の終わり方は珍しいものでした。元和十一年・寛永二年(1625年)、二代の滝川正利が「嗣子がなく病弱で幕府の公務に耐えられない」として自ら所領を返上したのです。取り潰されたのでも移されたのでもなく、自主廃業でした。存続は約二十三年です。

初代の滝川雄利は滝川一益の一族で、関ヶ原で西軍について改易されながら、その後に徳川秀忠の御伽衆となって常陸二万石で復活した人物でした。息子が自分から大名をやめてしまったことになります。

正利は旗本に降りて片野領二千石を安堵され、娘婿の滝川利貞が継ぎましたが、元禄十年(1697年)の地方直しで近江へ移されました。滝川家は四代九十五年にわたって片野を支配したことになります。

それ以降、幕末に至るまで片野村がどこの領地だったかは、わかっていません。常陸国新治郡は幕府領と旗本領、志筑藩・水戸藩・牛久藩・府中藩の領地が入り組んでおり、片野がどれに属したかを示す資料に当たれていません。

元治元年(1864年)の天狗党の乱についても、片野との直接の関わりを示す記録は見つかりませんでした。片野は筑波山塊の東麓、八郷盆地にあり、挙兵地からは東へおよそ十五キロ。天狗党の主な行動ルートからはやや外れています。

片野城址は石岡市根小屋にある中世の丘城で、本丸を高さ三メートルの土塁が囲み、南北六百メートル以上にわたって曲輪が連なります。堀や虎口、馬出といった防御の跡も良好に残ります。城主として知られるのは太田資正(三楽斎)—犬に手紙を運ばせた逸話で名高い戦国関東の武将です。

僧から武将へ—滝川雄利の前半生

片野藩の滝川雄利(かつとし)は、もとから滝川家の人ではありません。伊勢の国司・北畠家の一族である木造(こづくり)氏の出で、若いころは僧として寺に入っていたと伝えられます。織田信長が伊勢を攻めたとき、雄利は北畠家の内情を織田方に通じる役目を果たし、信長の重臣・滝川一益に見込まれて「滝川」の名字を与えられました。のちに信長の次男・信雄が北畠家を継ぐと、その家臣となり、信雄の一字をもらって「雄利」と名のります。

天正四年(1576)、信雄の命で北畠家の前当主・北畠具教が三瀬の館で討たれた「三瀬の変」にも、雄利は加わったとされます。旧主の一族を滅ぼす側に回り、新しい主君のもとで生き抜いた人でした。信雄の失脚後は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原で西軍について領地を失いながら、秀忠の話し相手(御伽衆)として再び取り立てられ、片野二万石で大名に返り咲いています。北畠、織田、豊臣、徳川と主を替えながら、戦国の伊勢から江戸の常陸まで生き延びた生涯でした。

片野城と太田三楽斎

雄利が入る前の片野城は、戦国の関東で知られた武将・太田資正(三楽斎)の城でした。資正はもとは岩付(岩槻)城の主でしたが、子に城を追われ、常陸の佐竹氏を頼ってこの片野に入ります。離れた城どうしの連絡に訓練した犬を使ったという逸話で知られ、軍用犬を使った日本で最初の武将ともいわれます。片野城跡に残る長大な土塁や曲輪は、主にこの資正の時代の姿を伝えるものです。

朝日姫の輿入れを仲立ちした男—片野藩の滝川雄利

北畠・織田・豊臣・徳川を渡った滝川雄利

片野藩(常陸、いまの茨城県石岡市)の滝川雄利は、もとは伊勢北畠家の一族ともいわれ、織田信雄に仕えて滝川一益から「滝川」の姓を許された人です。秀吉の妹・朝日姫が家康に嫁ぐときの仲立ちや、小田原の北条家の降伏の仲介にもかかわったとされます。家格は外様です。妻は生駒氏の姪とされます。

羽柴壱岐守と『医学天正記』

子の正利は「羽柴壱岐守」と名のったこともあり、豊臣家から羽柴の名字を許されていたことがわかります。名医・曲直瀬玄朔の診療記録『医学天正記』には、正利の病歴が記されているとされます。

寺に残る滝川家

石岡市の泰寧寺や、桂徳院、龍光院などに滝川家ゆかりのものが伝わります。滝川家は旗本として続き、幕末には子孫の大目付・滝川具挙が、慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いのとき、「討薩表」を持って鳥羽街道を進み、薩摩藩兵と衝突しました。この衝突が戊辰戦争の始まりになります。

仲立ちの家と、戦いの火ぶた

朝日姫の輿入れや北条の降伏など、争いを収める「仲立ち」で名を上げた家。その子孫が、二百七十年後に戊辰戦争の最初の衝突の当事者になる。滝川家の歴史は、江戸時代の始まりと終わりの両方に、思わぬ形で顔を出しています。

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