沼間守一とは何をした人物か—伝習隊の歩兵頭から民権派の新聞人へ。日光・庄内での戦い、嚶鳴社と東京横浜毎日新聞、逸話とゆかりの地

沼間守一の肖像写真

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沼間守一(パブリックドメイン)

沼間守一(ぬま もりかず)は、幕府がフランス式に鍛えた伝習隊の士官として戊辰戦争を戦い、明治になると新聞と演説で政府を批判した自由民権運動の論客になった人です。刀を筆と弁舌に持ちかえた幕臣、といってもいいでしょう。

伝習隊は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順らが進めた幕府陸軍の近代化から生まれた部隊です。家と身分、幕末の歩み、出世の経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。

目次

沼間守一とは—先に答え

家・身分 幕臣・高梨仙太夫の次男として江戸牛込に生まれ、沼間平六郎の養子に
生没 天保14年12月2日(1844年1月21日)〜明治23年(1890年)5月17日。享年48
名前 幼名・本名は慎次郎。号は不二峰楼主人など
幕末に何をした 長崎で英学・兵学、横浜のヘボン塾と陸軍伝習所で学び、フランス式の訓練を受ける
出世の経緯 伝習隊で指図役頭取から歩兵頭並へ、慶応4年1月に歩兵奉行並
関わった戦い 慶応4年、日光方面で大鳥圭介とともに戦い、会津・庄内で兵を訓練。庄内藩の降伏で捕らわれる
明治の歩み 司法省・岩倉使節団随行・元老院権大書記官を経て、嚶鳴社、東京横浜毎日新聞、立憲改進党、東京府会議長
最期・墓所 明治23年に病没。墓は寛永寺とされます

幕臣の家に生まれ、沼間家の養子に

沼間守一は天保14年(1844年1月)、江戸牛込で幕臣・高梨仙太夫の次男として生まれました。のちに沼間平六郎の養子になります。養父の平六郎は長崎奉行所に勤め、のちに幕府が上海へ派遣した千歳丸の船長も務めた人でした。兄の須藤時一郎はのちの銀行家、弟の高梨哲四郎はのちに嚶鳴社の仲間になり、3人は「江戸っ子三兄弟」と呼ばれたといいます。

幕末に何をしたのか—長崎・横浜で学び、伝習隊へ

長崎で英学と兵学

安政6年(1859年)、長崎奉行所に勤める養父について長崎へ行き、英学と兵学を学びました。文久元年(1861年)に江戸へ戻ると、矢田堀鴻に測量術を習っています。

ヘボン塾と陸軍伝習所

元治元年(1864年)、横浜のヘボン塾に入り、慶応2年(1866年、慶応元年とする資料も)に横浜の陸軍伝習所の歩兵科へ入りました。慶応3年にはフランス軍事顧問団のシャノワーヌからフランス式の訓練を受けます。幕府がフランスの力を借りて陸軍をつくり直す計画は、小栗忠順らが進めたものでした。

出世した経緯—伝習隊の歩兵頭並から歩兵奉行並へ

フランス式の訓練で頭角をあらわし、慶応3年に指図役頭取から歩兵頭並に昇進、江戸の屯所で第二伝習兵1,500人の訓練を任されました。慶応4年1月には歩兵奉行並となっています。20代半ばで、幕府陸軍の幹部の一人になったわけです。

明治になってからは、学んだ英語と法律が出世の道になりました。明治2年に釈放されると日本橋で英学を教え、板垣退助・谷干城の紹介で土佐藩邸で兵士を教えます。廃藩置県後は横浜で商売をして失敗しましたが、明治5年、井上馨の推薦で大蔵省、続いて江藤新平の推薦で司法省に入り、岩倉使節団に加わってヨーロッパへ渡りました。明治8年には元老院の権大書記官となり、鶴岡で起きた農民の訴え(ワッパ騒動)の調査にも出張しています。かつて庄内で戦い、捕らえられた人が、今度は政府の役人としてその地を訪ねたのです。

逸話

捕らわれて詠んだ句

庄内で捕らえられたとき、「ああ たった六十余州か けさの春」と詠んだと伝わります。日本中を相手にしても小さなもの、という気概とも、天下の狭さへの嘆きとも読める句です。

官吏の演説禁止で辞職

ヨーロッパで言論の自由を見てきた沼間は、元老院にいながら演説会で弁舌をふるっていました。明治12年8月、役人が政治演説をすることが禁じられると、官職のほうを捨てて言論の道を選びました。

「新聞の広告は新聞の生命」

新聞経営では広告を重んじ、明治21年には広告取次の会社「広告社」をつくりました。「新聞広告の元祖」とも呼ばれます。

関わった事件・戦い

日光・会津・庄内の戊辰戦争

慶応4年(1868年)3月、兄の須藤時一郎とともに士官およそ20人を連れて江戸を脱走しました。4月には日光方面で大鳥圭介とともに、板垣退助らの新政府軍と戦います。7月に会津へ戻って遊撃隊を訓練し、そのあと庄内藩に移って農兵を鍛えました。9月に庄内藩が降伏すると酒田で捕らえられ、12月に江戸へ送られて静岡藩邸に閉じ込められました。

嚶鳴社と東京横浜毎日新聞

明治6年ごろに始めた法律の講習会が、明治11年に「嚶鳴社」となりました。演説会で政府を批判する結社で、最盛期には支社29か所、社員1,000人を超えたといいます。明治12年11月には『横浜毎日新聞』を買い取って『東京横浜毎日新聞』と改め、民権派の有力紙に育てました。

開拓使官有物払下げ事件と立憲改進党

明治14年、北海道開拓使の官有物を安値で払い下げようとした問題では、8月25日に新富座で大演説会を開いて反対しました。明治15年4月には嚶鳴社の仲間を率いて大隈重信の立憲改進党に加わり、党の解散論が出たときも反対して党を守りました。

大同団結大会での負傷

明治20年9月、浅草の井生村楼で開かれた大会で、星亨派の壮士と衝突して重傷を負いました。言論の人であっても、身の危険と隣り合わせの時代でした。

最期

明治13年に東京府会の副議長、明治15年に議長となりました。明治22年2月11日には東京府会議長として大日本帝国憲法の発布式に参列しています。しかし遊説中に発病した病が重くなり、明治23年(1890年)5月17日、肺炎を併発して亡くなりました。48歳でした。墓は東京の寛永寺にあるとされます。

沼間守一ゆかりの地

寛永寺(東京都台東区上野桜木)

辞典では墓所を寛永寺としています。区画の場所は確認できていないので、お参りする場合は寺に問い合わせてください。

横浜(神奈川県)

ヘボン塾と陸軍伝習所で学び、のちに『横浜毎日新聞』を買い取った、沼間の人生の転機の町です。『横浜毎日新聞』は明治3年12月創刊の、日本で最初の日刊新聞とされます。

鶴岡・酒田(山形県)

戊辰戦争で農兵を鍛え、降伏のあと捕らえられた庄内の地です。旧庄内藩の城下・鶴岡のようすは【現地取材】鶴ヶ岡城と庄内藩校・致道館で紹介しています。

日光方面(栃木県)

慶応4年4月、伝習隊が新政府軍と戦った地です。大鳥圭介らの動きは【現地取材】宇都宮城と太平山を歩くもあわせてどうぞ。

2027年NHK大河ドラマ

『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集

放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。

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参考資料

  • Wikipedia「沼間守一」
  • コトバンク「沼間守一」(日本大百科全書・日本人名大辞典ほか)
  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」沼間守一
  • Wikipedia「嚶鳴社」
  • Wikipedia「横浜毎日新聞」
  • 柳原豊太郎編『沼間先生之伝』(1890年)
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