明治元年九月に始まった、日本最後の和式築城
厚沢部町教育委員会によりますと、館城の普請が始まったのは明治元年九月で、十月二十六日ごろには一通り出来上がりました。江差の商人関川家に伝わる日記には、畳を三百七十枚も用いた建物が次々と整えられていく様子が書き留められております。幕末維新の激動のただなかに築かれた、日本で最後の和式城郭という位置づけです。
入城から十二日で落ちた城
文化庁の文化遺産オンラインによりますと、藩主が館城へ入ったのは明治元年十一月三日で、そのわずか十二日後にあたる同月十五日、旧幕府脱走軍の攻撃を受けて城は落ちました。この城跡は松前町の福山城跡とあわせ、「松前氏城跡 福山城跡 館城跡」として昭和十年六月七日に国の史跡へ指定されております。松前町の説明では、もとの福山城も嘉永二年に幕府が十三代藩主松前崇廣へ築城を命じ、高崎藩の市川一学が設計して安政元年に完成した、まだ新しい城でした。
百間堀と、火を受けた二百四十七基の礎石
厚沢部町によりますと、郭は一辺およそ二百メートルの正方形に近い形で、内側に土塁と柵をめぐらせ、長さ約百間の堀は百間堀と呼ばれます。平成十七年から続く発掘調査では礎石が二百四十七基見つかり、赤く変色して細かく剥がれていることから、落城のときの火災で高熱を受けたものと考えられております。築城の理由についても、蝦夷地が国の版図へ組み込まれて従来の藩経営が難しくなったためとする見方や、江差の商人が後押しした正義隊の意向とする見方があり、諸説あります。
館城について
館城(たてじょう)は、現在の厚沢部町に築城された松前藩の城です。
明治元年(1868年)、函館戦争直前に松前藩が松前城(福山城)から本拠を移すために築城されました。その理由の一つとして海岸沿いにあった松前城では洋式軍艦からの砲撃にさらされてしまうという理由がありました。

その他、内陸を開拓し海に依存していた藩経済の転換を図ったとも言われています。同年、函館五稜郭を攻略した「榎本武揚」率いる旧幕府軍は新政府軍に属している松前藩攻略の軍を興しました。松前城は海からの艦砲射撃に加えて、大鳥圭介率いる「伝習隊」や土方歳三率いる「新選組」らに攻められ数日で落城しました。
この間、松前藩主は「館城」へ避難しており松前藩の抵抗はなおも続きました。旧幕府軍は松前藩を完全に駆逐するため「館城」の攻略を決め、五稜郭より「松岡四郎次郎」が率いる一聯隊200名が館城攻略へと向かいました。

松前藩主はさらに江差方面へ避難しており、藩兵の多くも藩主護衛にあたっていたため館城には60名ほどの兵しかおらず松岡率いる「一聯隊」の攻撃により数時間で陥落しました。そして松前藩兵は江差方面へと退きました。
この戦闘により城は焼失してしまいました。城跡には土塁と堀がよく残っており、百間堀と呼ばれる大きな堀や、発掘調査で見つかった247基の礎石を見ることができます。昭和十年六月七日に国の史跡に指定されました。
館城と三上超順
内陸の新しい城 館城は、明治元年(1868)、松前藩が新しい本拠として、海から離れた内陸の館村(いまの厚沢部町)に築き始めた城です。海に面した松前の城は、軍艦からの砲撃に弱いと考えたためでした。この年の夏には、藩内で勤王派の家臣たちが政変を起こして藩の実権を握っていました。
落城と三上超順 しかし城が完成しないうちに、旧幕府軍が蝦夷地に上陸し、十一月には館城も攻撃を受けて落城しました。このとき、松前の法華寺の僧・三上超順が、寺の門を守るように大きな刀を振るって旧幕府軍と戦い、討ち死にしたという話が伝えられています。
館城の構造と、松前藩が移った理由
なぜ松前を離れたのか
松前の城地が守りに向かないことは、以前から藩の中でも議論されていました。安政二年(1855年)には、和人地と蝦夷地の大半が幕府に召し上げられ、その代わりに陸奥梁川と出羽東根で3万石が与えられます。これ以後、藩の漁業収入は減り、厚沢部川流域の開墾を進める拠点が求められるようになりました。
そこへ慶応四年七月、尊王派の藩士四十名余りが「正議隊」を名乗って立ち上がります。率いたのは鈴木織太郎や下国東七郎らでした。家老の松前勘解由は罷免され、八月三日に切腹しています。人心を一新するねらいに加えて、戊辰戦争が北へ及ぶことへの危機感もありました。海に面した松前城は、艦砲射撃を受けるおそれもあったのです。こうした事情が重なって、内陸の館に新しい城を築くことになりました。「館藩」の名は、朝廷から館への築城の許しを得たことに由来します。
土塁と丸太の柵で囲んだ城
館城は、厚沢部川中流の南岸の台地に築かれました。標高は48〜60メートルです。広さは約一万坪で、四方を幅二間の空堀で囲み、その内側に土塁を巡らせ、さらに内側に丸太の柵を立てていました。門は、西に表門、北に裏門の二つです。郭の中には本丸・役所・武士部屋二棟・賄部屋・米倉がありましたが、本丸のほかは簡素な造りでした。
六十人で守った最後の戦い
明治元年十一月十五日、松岡四郎次郎の率いる旧幕府軍が館城に迫りました。守っていたのはおよそ六十人です。約一時間の銃撃戦ののち白兵戦となり、昼ごろに城は落ちて焼けました。元法華寺の僧で軍事方を務めた三上超順は、この戦いで奮戦したことで知られます。藩主の松前徳広は弘前へ逃れましたが、その月の二十九日に亡くなりました。
老中を出した藩と、館藩の終わり
松前藩は、元治元年(1864年)に先代の松前崇広が老中となった藩でもありました。外様の小藩から老中が出たのは異例のことです。箱館戦争ののち、明治二年六月に松前修広が館藩知事となりました。明治四年に館藩は館県となり、同じ年のうちに弘前県へ合わされています。
城跡には土塁・堀・建物の跡が残り、近くの丸山には散兵壕の跡もあります。平成十八年(2006年)、館城跡は松前城跡(福山城)とあわせて、国の史跡「松前氏城跡」となりました。
場所・アクセス・地図
北海道檜山郡厚沢部町城丘



